意識のちから

男の人はプライドで損をしている?

『男はプライドの生きものだから』
テレンス・リアル

(その2) 

http://since20080225.blogspot.jp/2009/08/1.htmlより引用 

 

著者のテレンス・リアルは臨床心理士であり、主に家族、夫婦のセラピーを行っているという。
夫婦間の問題についての著書が多いようだ。
本書は、目次から想像できるように、男性が陥りやすい心理をテーマにしている。
男性は「男らしく」を教えられ、その男らしさがプライドに成長して行く。
そうやって生きている間にも、そのプレッシャーは重くのしかかり
そのはけ口として、アルコール・セックス・仕事・その他の中毒行為に逃げる。
男性は苦しい感情・悲しい感情・悔しい感情をダイレクトに出せない。
それもプライドの一つなのでしょうが、
男性が自分自身の「女々しい」優しさや繊細さを受け止める事ができれば何も問題はないし、
認めなくても、中毒行為に逃げなければ、うつ病の症状がでて医者にかかるようになるだろうし、
そうして自分自身と向き合っていくだろう。

この本で描かれる症例は、著者自身をも含んでいる。著者の父はとても横柄で暴力的な男であり、
二人の息子たちは常に父の暴力へどう対処するのか考えながら行動しなければならなかった。著者は父に強い反発を抱え、弟は父を単純に避けるようになった
著者リアルは20代をアルコールとドラッグに費やしてしまったという。それが、彼が自分のうつ病と戦うためにとった戦法だった。
死の危険もあった。それでもやがてセラピストを志していくわけだが、
その過程で父と対話することを試みる。
始めのうち、父は怒りと否定以外の感情を表現することを拒むが、
息子は父の怒りをというか父親をもはや恐れていない。

恐れを抱えているのは父のほうであり、息子は父の恐れをやさしく肯定する。
そうして時間をかけながら、父は息子に少年時代の苦しかった日々、
親に、大人に拒絶された日々のことを語り出す。
その苦しみを誰にも話せなかった苦しみを吐き出す。
父は世をすねて他人を見下して生きていたわけで、そんな人が老境に至り、
今までバカにしてきた息子に助けられながら、
「人生に大切なのは愛だ」「俺のようにはなるな。家族を大事にしろ」と
息子たちに言い残して死んでいくのだ。

家族の生活を無茶苦茶にしてきたことが帳消しになったりしない。
終わりよければ、という話でもない。
それでも、どんな状況でも前を向けるんだ、と素直に思いたい。
自分が無価値に感じられるという問題から目を背けると、
自分だけでなく、まわりの人々も深く傷つけるような事態を招いてしまう。
その答えが「ゆっくり生きろ」だ。

「隠れたうつ病」においては、防衛的行動または嗜癖(しへき≒中毒:引用者)行為によってダメな自分から誇大化した自分へと飛躍するが、そのどちらでもない健全な自己評価に到ることはできない。うつ病の根になっている自己の内面と向き合うことなしには、健全な自尊心を持ちえないからである。どんなにあがいても、内面の痛みを隠蔽したまま癒される道はない。[p.71]

ゆっくりが楽なわけじゃない。むしろ仕事中毒になったほうが、うつの症状には即効だろう。
もし人をうつ病にするような出来事や環境があるとしたら、人はうつ病になるべきだ、
というのが著者の考えのようだ。
そうしなければ「うつ病の根」が放置されてしまう。

プライドは捨てられないけれど
「男は繊細で、傷つきやすい生きものである」と察してほしい
女の役目は、優しく自分を包みこんでくれること
それが叶わないと機嫌悪さ・遮断・怒り・暴力へ進み
なお一層みじめさに襲われる。
そんなせつない想いを抱き喘ぐ多くの男性は自分のうつ病を
自分自身から隠すために中毒行為に走る。

そうして何年も何十年も傷ついた心を放置し、
ある日、(年を取ったりして状況が変わって)中毒行為ができなくなると、
無視されつづけてきたうつ病が一気に襲いかかり、
ただでさえ壊れている生活にとどめの一撃がくわえられる事になる。
この本では男性のある種の行いをそのように分析している。 

「傷つきやすい」ということが主体性を失っていることと結びつかない。
以前にも触れた「感情」は自己責任ともつながらない。
「それと、これとは別問題」が男性の常套手段
その上、自分の内側を見つめどのような無意識の支配下にあるか?
を知ろうという好奇心は発心せず、
何とか自分を価値づけする何かにすがろうとするが、
それも根気よくというよりも、できれば逃げの姿勢で可能性が少ないと思うや否や
殻に閉じこもって外界と遮断する方向へと走る
そうやって傷を癒す機会に恵まれないまま、傷は増え、
ちょっとした無価値感から状況は決してよくならないと思い込み、
うつ病が一気に襲い掛かるという,多くの症例について書かれている

ダイアンは夫は悪い人ではない、という。それどころか愛情深い人だともいう。セックスに執着しているとはいえ、浮気をしているわけでもないようだ。しかし、ダイアンは泣きながら「もう、こんな生活は耐えられないわ!」ともいうのだった。23年間、夫のセックス中毒にがまんしてつきあった結果、彼女は家をでて離婚しようと決意した。デミアンはすかさず、「別れるなんてとんでもない!」と叫ぶ。彼は欲求が満たされているかぎりは、やさしい男性でいられるのだが、満たされないと、コントロールできそうにない不安に襲われて、陰湿な攻撃を始める。「彼はどこからか襲ってくる不快感を癒すためにセックスを薬として使っていたのである。」[p.80]

デミアンのうつ病の根は、彼が7歳から13歳の間、兄とその友人に性行為を強要されたことだった。
彼は長い間その記憶から目をそらし封印してきたのだが、ついに思い出してしまったのだった。

 デミアンのケースは、「隠れたうつ病」を癒す道が「表面化したうつ病」であることを如実に示している。まず、嗜癖(しへき≒中毒:引用者)による防衛的行動を認め、それを止めることからはじめなければならない。するとやがて、隠蔽されていた痛みが表出してくる。デミアンの嗜癖行為の背後にはうつ病が隠されていた。そしてうつ病の背後にはトラウマが隠されていたのである。セラピーを通して勇気づけられた彼は、誇大化による自己防衛を止め、うつ病を表面化させると共に、そのうつ病の根になっていたトラウマと正面から向き合ったのである。[p.83]

「隠れたうつ病」の男性の自己防衛は、デミアンが妻のダイアンを深く傷つけたように、
人間関係を崩壊させる。
あらたなトラウマの種をばらまいているようなものだ。
そして始末の悪いことに、自分がその被害をもたらしたという感覚が全くない
恥知らずな状態でもある。デミアンも自分ではなく妻がおかしくなったと考えていた。
この本にでてくる男たちには二つの特徴がある。

一つ目が恥知らず、である。妻が入院したそのとき、若い娘とホテルでお楽しみだった60過ぎの男(しかもそこに電話したのが長男だったり)。
妻が長電話しているだけでブチ切れる男。自転車で前を走っている人を追い抜いていい気になっている男(大人です)。恥知らずの見本市である。
そしてもう一つの特徴が、デミアンのケースでいえば「セックスを薬として使っていた」こと。
つまり、本書でも後のほうで言及があるが、ある行為を通して「救い」を得ようとしているのだ。
そしてそう考えれば、何でもコントロールしないと気が済まないとか、
人の気持ちを無視して独裁者のように振る舞うとか、
ちょっとのことでえらく不機嫌になるのも理解できる。
なんといっても自分の人生が救われるかどうかの問題なのだから。
そこで「ゆっくり生きろ」が重要になる。

 心の病を癒すためには内面の病根を正視しなければならない。精神分析とは科学でも芸術でもなく、根源的な意味でのモラルと関わることだった。それぞれの人が「生きる道」を発見する手助けをするのが、セラピーというものである。男性のうつ病は、人生のいくつもの分岐点で横道にそれてしまった行動の集積だ。癒しへの道は、そのひとつひとつを拾い上げて軌道修正していく、忍耐のいる作業である。[p.229]

デミアンの体験は過激で特殊なもので一般的ではないのでは、という疑問に、
著者は、両親が二週間不在だった一歳児の記録を例にだしながら、こう答える。

強くなろうとし、弱点を認めまいとする男の姿勢は自分以外の人に対しても適用されて、弱者への同情心が薄く、思い上がりの強い人間をつくっていく。人間らしい感情を失い、表現力を失うことは、こうしたさまざまなかたちで他者とのつながりの喪失を必然的に招いていくのである。  多くの女性が自分が受けてきた抑圧をひとつひとつ認知し、自己を有力化(empowerment)する術を見出すことでうつ病から回復してきた。男性は断ち切られた感情を蘇らせ、自分とのつながりを取り戻し、人とのつながりを学び直すことが回復への道なのである。[p.160]

恥知らずで、救いを求めて右往左往する人生が幸せであるわけがない。人は弱いから、
そういう人生を生きてしまうこともあるだろうけど、希望は持っていたい。
問題はうつ病ではない。いやうつ病は問題だけど、
それを隠すことはもっと問題を大きくしてしまう。
上記のような男性を著者は「隠れたうつ病」患者と呼ぶが、
「隠れたうつ病」は人間関係を徹底的に破壊する。

それもそのはずで、さっきあげたような中毒行為におぼれている人間を慕う人なんかいない
(一瞬かっこよく見えることはあるかもしれないけど)。
ましてそういう人と長期間一緒に暮らすなんて地獄以外のなにものでもない。

「隠れたうつ病」の男は次の三つの理由から対人関係に対処できなくなっている。第一は、自己調整のための嗜癖的防衛行為が最優先されていること。第二は、他者との心のつながりを持つことは必然的に自分の心を覗くはめになるため、他者への親密な関わりは避けたいと願っていること。第三は、対人関係のスキルがひどく未発達なため、親密な人間関係を求められると、すでに十分感じている自信のなさをますます強めてしまうこと。 [p.319

こんな具合なので、彼らとともにいなければならなかった人たちの人生も、
とても辛いものにしてしまう。    
じゃあどうすればいいのか。それは、辛かったこと、悲しかったことを、そのまま認めることだ。
あの時は本当に苦しかった。本当に寂しかった。
そうやって辛い出来事を認め、その解釈を変える。
たとえば「自分はいじめに抵抗しなかった。はっきり主張しなかった。」という解釈を
「自分は子供だったので、抵抗するすべを知らなかった。
数で圧倒されれば大人だって抵抗は難しい。
大人たちは「大したことない」とたかをくくっていじめを止めなかった。」というふうに変える。
そうすることで、自分の感情を無視することなく、辛い経験を乗り越えることが出来る。
なんでもかんでも自己責任という解釈はうつを加速させるだけだ。    
しかしそれでも、「隠れたうつ病」が「表面化したうつ病」になることは避けられない、
と著者は言う。

辛いこと、苦しいことに出会えば落ち込むのは自然な反応で、
人はそれをすっ飛ばして成長することなどできないし、十分な時間が必要だ。
問題は落ち込んだときにどうするかであって、
そこで「落ち込んだり傷ついたりするのは男らしくない」とかそういう反応をすると
「隠れたうつ病」へ一歩近づいてしまうのだろう。
周りの人もそういうときは、「辛かったね」と声をかけてあげるべきなのだ。

決して「男のくせにめそめそするな」ではない。  
本書で描かれる治療の様子をみると、辛かった出来事を辛かったと認めるという段階が
もっとも難しいようだ。
著者は家族セラピーの専門家であるので、辛かったことを認めるのは患者だけでなく、
家族も一緒に患者の苦しみを認めることで治療を進めていく。
これはたぶん、患者だけが辛かった経験を受け止めても、
家族が「そんなことはない。悪いのはお前だ」というような反応しかしなければ
治療は難しくなってしまうからだろう。

本書に出会い「男のプライド」にトラップされる多くの男性たちに同情を禁じ得ない。
「男のプライド」を簡単に取り払うことってできないのでしょうか?
誰か教えてほしい。

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