物語を創りながらその中で生きている私たち

「能動的虚構」構築の勧め

 私たちをはじめすべてのモノ・コトが虚構の中で存在していることを最初に気づいたのは仏教の祖、『釈尊』(紀元前7~5世紀ごろの人とされています)でした。

釈尊はそれを『縁起』という言葉で説いています。

 『縁起』とは?
 日々、瞬間々、様々な縁が起り、それらが集まり、また消え去りながら変化していく虚構を、あたかも独立自存の現実、あるいは我と妄想していることを戒め、あらゆる存在、あらゆる現象の実体を否定しました。私はこれを「縁起イズム」と呼んでいます。

縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ [2] [3] [1] 。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す [2] 。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる [2] [3] 。因縁生、縁起法、縁生、因縁法 [2] 、此縁性 [3] [注釈 1] ともいう。

参照: ja.wikipedia.org/wiki/縁起

仏教における真理を表す一つの言葉で,詳しくは〈因縁生起〉といい略して縁起という。現象的事物すなわち有為(うい)はすべて因hetu(直接原因)と縁pratyaya(間接原因)との2種の原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説であり,〈縁起をみる者は法=真理を見,法をみる者は縁起をみる〉といわれる。それは基本的には〈有るが故に彼有り。此無きが故に彼無し〉あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉と規定される。

参照;縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

この説はナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ)、2~3世紀の人)によって、縁起説と密接に結び付けられて深化しかつ拡大し、縁起―無自性(むじしょう)―空(くう)として確立した。すなわち、いっさいのものはそれぞれ他のものを縁としてわれわれの前に現象しており、しかも各々が相互に依存しあっていて、その相依関係も相互肯定的や相互否定的(矛盾的)その他があり、こうしていかなるもの・ことも自性を有する存在(実体)ではない、いいかえれば空であり、しかも、そのあり方もいちおうの仮のものとして認められるにすぎないとし、そのことの悟りを中道とよんでいる。

参照:縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

ところが、このように仏教の中心思想である「縁起」の思想は、時を経て継承される中で、尾ひれがつき、複雑化されたことにより、現在では異なる意味で使われるようになりました。

1,神社仏閣などの起源、由来の意味
2,縁起がよい、縁起を担ぐ、などの「縁起」は日常的な吉凶に関わる迷信、ジンクスなどの類を含む意味 >> 続きを読む

「カタルシス」の不可欠性

気持ちいいでメンタルデトックス

私たちの日常は常にストレスに晒されています。
それほどストレスと意識しなくても、「仕事」と思うだけで、「楽しみ」ではないことが多く、仕事に向かうときからストレスの蓄積が始まります。

「カタルシス」という言葉を耳にした方も多いと思いますが、聞いたことがないという方のために「カタルシス」について説明を加えます。

ストレスが溜まったという知らせは「疲れた」ですね。そんな時に私たちは無意識に「カタルシス」を行っています。

  • お風呂に入ってゆったりお湯につかって「あ~気持ちいい~」
    「きょうは自分にご褒美」と、思いっきり豪勢なご馳走を食べて「あ~美味しい~幸せ~」
    疲れているのに頭が冴えて眠れないとき、好きなドラマや、映画を観て共感し感動で涙。
    月末にお給料を確認して、自分の働きを自賛する。
    一週間、一か月の終わりに、仕事でできなかった好きな事(運動、ゲーム、旅行など)を思いっきり楽しむ。

などは誰にも心当たりのあることですね。これらはみなカタルシスを行っているのです。

詳細:カタルシス – Wikipedia

「カタルシス」の意味は「浄化」「排泄」
「カタルシス」は元々、古代のギリシャで使用されていた言葉で、直訳すると「浄化」「排泄」という意味です。

 語源はギリシャ語
ギリシャ語では「katharsis」と書きます。その内「kathar」は「穢れや不浄を清める儀礼」を意味しており、「不浄や良くないネガティブなものを清めてスッキリとした精神状態にすること」を表します。ちなみに英語では「catharsis」と書きます

また、古代ギリシャにおける宗教団体のオルペウス教やピタゴラス教団などでは「罪からの魂の浄化」という意味で使用されていたようです。

アリストテレスが「精神の浄化効果」として説明
前述したとおり、語源をたどると最初は宗教などの場面で使われていた、専門的な用語だったのです。では、なぜ「メンタル面での浄化」といった認識で一般の間でも用いられるようになったのでしょうか?

実は、哲学者のアリストテレスが自身の著書「詩学」の中で「人は悲劇を見ている時に生まれる恐れや憐みを感じることで、無意識に心の奥底に抑え込まれていた同様な感情が解放して、心が清められる」と表しました。
その「詩学」がきっかけとなり「メンタル面がスッキリした様子」といった意味で用いられるようになったのです。

また、「カタルシス」は古代ギリシャの医学用語で、薬を飲ませて嘔吐させたり、下痢させて腸内の便の排出を促す治療を指す言葉でもありました。
その他、精神科医のフロイトも心理学の用語として用いて当時行っていた催眠療法と合わせて「悲しく痛ましい話を聞いて涙する療法」によって、精神的に解放される様子を指しています。
これは現代でも心理学やカウンセリングの場面で「カタルシス効果」として使われています。

心理療法として使われる「カタルシス効果」
不安や恐れ、悲しさやつらさなどのネガティブな感情を言葉にしたり話したり、アウトプットしたりして緊張を解きほぐすことを「カタルシス効果」と呼びます。

誰かに少し悩みを話したり、文字にして書き出したりすることで気持ちがスッキリした経験は誰しもあるでしょう。ネガティブな感情には強いパワーがあり、溜め込むと心と体に支障をきたしてしまいます。
普段の生活の中で湧いてくるネガティブな感情や、過去のネガティブな思い出は「忘れよう」「思い出さないようにしよう」と思えば思うほど、脳に焼き付いたまま記憶が定着し、事あるごとに蘇ってきます。抑えるのではなく、逆に言葉でアウトプットすることでメンタルの状態が改善できるのです。

「抑えていたマイナスの感情が解放されて、気持ちがスッキリした様子」を表す「カタルシス効果」映画や本を読んで感動して泣くこともカタルシス効果です。
登場人物の言動や、物語の中のさまざまなシーンによって感情が高ぶると、言葉に出さなくても涙が出てきます。ギリシャの古代医学では、体から血などの体液を体外へ排出することを「カタルシス」と呼んでいました。

実は、感情が高ぶった時の涙には「ストレス物質」が含まれています。つまり、涙を流すことで物理的にもストレスを体の外へ出している、つまり涙はデトックスなのです。
このように、言葉でアウトプットしなくても、1人で映画や本を読み感動して泣くことで「カタルシス効果」を得ています。

「カタルシス」とは人の鬱積した心がきれいになっていく状態を表した言葉です。心のもやもややイライラなど不安要素や苦悩や怒りなどを言葉や文字にして表現すること、共感や感動で涙することで、不快だった気持ちが取り除かれて安心感を得られる効果のことです。

言い換えるとメンタルなデトックスの作用です。

「カタルシス」は人間にとって必要不可欠なものであることはいうまでもありません。身体の排泄が重要なのと同じくらいメンタル的排泄は無くてはならない重要な要素なのです。

ところがこの「カタルシス」、活用の仕方を間違えるととんでもないことになります。
特にメンタル面の抑圧や鬱積を長い間溜め込み過ぎたことが原因でサイコパスや、苛め、パワハラ、そして迷惑なマウンティングへと発展しかねないこともあるのです。

そこまで、重篤なデトックスバイアスでなくとも、知らず知らず小さな迷惑を犯してしまっていることもあります。

先回❝「知らない」を知る❞についてお話ししました。
これまで示した通り、私たちは自己の内側の鬱積や、抑圧などを観察することが少ないことは既に申し上げた通りです。

そうした、自分が気づかない自己の思い込みや、正義を基に生じた理不尽、不条理の記憶は、いつまでも消えないまま、鬱積されているものです。

そういった知らないうちに溜め込んだ鬱積は、どこかで吐き出す必要があります。
他に迷惑が掛からない「カタルシス」は大いに取り入れ、スッキリさせることは肉体にもメンタルにも必要不可欠な事ですが、自分では気づかないうちに「代替カタルシス」をしてしまっていることがあることに気づきました。

丁度タイムリーな夢を見ました。
まるで映画を観ているようでした。
登場人物は小学生の子供と、若くてきれいで優しいお姉さん、それと私でした。

シーン1

  • 子ども:「お姉ちゃんは僕を弱いと思ってるでしょう?」
  • お姉さん:「そんなことないよ、弱いなんて全然思ってないよ」
  • 子ども:「そう?でもお姉ちゃんはいつも僕を優しく守ってくれるでしょ?だから僕のこと弱虫と思ってるんじゃないかと・・・」
  • 御姉さん:「そうじゃなくて、お姉ちゃんはあなたが可愛いから、守ってあげたくて・・・」
  • 子ども:「大丈夫だよ!僕一人で考えてできるもん」

シーン2
子供自身が自分で結論を出す前に、お姉さんが助けようとしたとき、

  • 私:「ちょっといい?」と、シーン1を持ち出して「こんなことがあった事覚えてる?」
  • お姉さん:「覚えてます」
  • 私:「この子が言ってたのは、このことじゃないかと思う」
  • お姉さん:「えっ!?このことって?」
  • 私:「だからこの子は自分で考えて、自分で結論をだしてから、行動したいんじゃないのかしら?」
  • お姉さん:「でも、困ってるように見えて・・・」
  • 子ども:「僕、大丈夫だよ!」

そこで目が覚めました。
子どもが「僕は弱くなんかない」と感じることも解りますし、お姉さんが「そんな風に思っていない」ということも嘘じゃないのです。

お姉さんが「守ってあげたい」と感じることは、無意識に子供よりはるかに優位な位置から見ているので、そのことを本人が気づかない、というよりも当然のことと思い込んで、子供の自主性以前に指導的立場で行動しているだけなのです。

可愛いと思う心が基になって、危なっかしい様子を見ると「私が助けてあげないと」という使命感に背中を押されて、無意識に助けたり、守ったりすることで、自分自身もホッと安心し落ち着けるということです。

よく「あなたのためを思って」という言葉を耳にしますが、それと同じことですね。
教導の必然性が大義名分となって、愛情の押し付け、親切の押し売りになってしまうこともあり得るということですね。どちらも気持ちいい行為ですから。

このようなシーンは日常的よくあることです。
この夢がきっかけで『守る』こともマウンティングの一つなのだと気づきました。

とすると『愛情』の形としては珍しくないなケースなので、多くの人が勘違いしやすいということですね。。
「愛情」という耳障りの言い言葉は、概念の違いで(解釈次第で)知らず知らず誰かを縛ることになっているかもしれないのですね。

そもそもマウントを取りたい人の特徴は、常にヒエラルキーを意識しています。
自分が相手より上か下か?という意識です。
できればいつも優位な位置にいたいというのが当然の在り方で、無意識に優位の位置に収まってしまうことがあるでしょう。それを相手がすんなり認めない態度を取った時に、マウントを取ってしまう。そしてそれが高じると周りは皆「敵」となる可能性もありですね。。

「騙されないぞ!負けないぞ!」と緊張し警戒心でガードしながら、ゴリラのマウントのようにドラミング(胸叩き)したくなる。
そんな状況を想像しただけで疲れますね。

私たちはそういうことを「知らない」うちにやってしまっているということを知るべきですね。
子どもは弱いから保護しなければならない存在という意識が高じて、転ばぬ先の杖になって、転ぶ前に手を出してしまう親は多いものです。

そしてそれこそが親の愛と思い込むと、親は常に杖の存在となり、子供は当然そんな親の杖に依存し、杖がなくては生きられないことになります。
親はそのことで自己満足し(私がいなきゃダメ)と、大人になってからもやめられません。
やがて自分で考えることもできない、自立できない大人が育ち、指示待ち人間と化す可能性は大です。
そして子離れできない親はそんな大人になった子供を年金で養うということになりかねません。40歳を超えた引きこもり大人が増えているのは、そんなところにも原因があるのかもしれません。

このように「愛情」と思い込んでいたことが、実は「カタルシス」のはけ口だった、ということもある、ということを頭の片隅に置いておくことも必要かもしれませんよ。

可愛い(大切)⇒守りたい⇒気持ちいい⇒カタルシス⇒マウンティングになっていた。
こんな繋がりは日頃意識しないものです。

子どもへの愛情、恋人への愛情、夫婦間の愛情に、こうした偏った「カタルシス」との併用を行っているかもしれないことを、今一度立ち止まって考えてみることも、無駄ではないように思います。また使命感に背中を押されるのも気持ちいい「カタルシス」になるために、つい身を任せるということにもなるでしょう。

自分が日頃どのような「カタルシス」を取り入れているかを観察するだけで、気づかなかった「カタルシス」行動に気づき、そのことが却ってデトックスになるということもあります。

人間にとって「カタルシス」は日常的に排便と同じように、自動的に何らかの形で無意識に行為し、スッキリ感でデトックスを味わいながら、メンタルを保っています。

必要不可欠なだけに、ついつい「中毒性」のある「カタルシス」にはまってしまう危険もあることも忘れないことですね。

観察、注視は、私たちの人生を豊かにするための便利なツールと考えてはどうでしょうか。周りに目を向け、自分の位置を意識し、「やられるものか!」と緊張と警戒とマウントの連続の日々をおくるか、それとも周りに向ける目を自己の内側に向け、観察、注視することで自己の深層に眠っている役に立たない思い込みや勘違いに気づき、自己世界を広げる方向に転換するか、です。

実は観察、注視は以外に「カタルシス」効果がある、ということも経験上お勧めしたい実践の一つです。
「知らない、を知る」ことと「カタルシス」にはこのように密接な関係性があるようです。
ですが、その選択は自由ですから、参考として受け止めてください。

却って、緊張や警戒という刺激が「カタルシス」効果になっている場合も多いようです。
ランナーズハイなどはその典型的なものですし、修行僧の難行、苦行も同じです。プロセス中にも、達成後にも大きな「カタルシス」効果という報酬があるからです。

ただそこまでの道のりは険しいでしょうが、険しいほど報酬も大きいと言えます。
日本人のマジョリティーはどちらかと言うと後者でしょうか。

あなたはどちらを選択していますか?

 

「知らない」を知る

私たちは生まれた環境に守られ、教育され、子供時代を過ごし、やがて大人に成長します。その過程で受け継いできた文化や制度を選ぶことができません。それは知らず知らずに脳に深く刻まれ、自己というアイデンティティーを構築する基礎となっています。

その基礎から創られるのが、性格、気質、体型、等々、ほとんど基本的な自己の形成に関与しています。ところが、その基礎がどのような素材か、そしてどのような設計図を基にしているか、ほとんどの場合「当たり前」過ぎて、意識することなく知る由がないまま歳を重ねます。
そして、出来上がった性格、気質があたかもどこかから自然に降ってきて宿ったかの如く、または親からの遺伝に依拠するかの如く処理してしまっているのではないでしょうか。

その割には同じ両親から生まれた兄弟、姉妹がそれぞれ性格を異にするのも否めない事実です。
では、生まれたての赤ちゃんに性格はあるのか?という疑問が生じます。

日本女子大学人間社会学部心理学科教授の塩崎尚美先生によると、生まれたての赤ちゃんは、性格ではなく気質の影響が大きいと言っています。

生まれたときは「性格」ではなく「気質」の影響が大きい

赤ちゃんのころには、まだ「性格」というほど固まったものはありませんが、生まれたときからの「気質」というものはあるといわれています。

気質とは、生まれながらにしてその子に備わっている性質のようなもので、遺伝とはまた別のもの。何によって決まるかということには諸説ありますが、持って生まれた脳の機能が関係しているといわれています。

性格が形成されるときには、その子がどんな「環境」で育っているかの影響が大きく、両親からの「遺伝」はあまり関係ありません。

        引用:赤ちゃんの性格はいつから決まる?親から遺伝する?https://millymilly.jp/column/53961

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ヒエラルキーからフラットへ 世界観シフト

  先回に引き続き、今回はヒエラルキー(ピラミッド型階層構造)からフラット(ネットワーク型全体構造)への移行が徐々に進んでいることを踏まえて、そのビジョンや具体的動向などについて、また個々の変化を可能にする手立てなどをお話してゆきたいと思います。

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグに「この世の謎を解き明かしてくれる知的冒険の書だ。」と言わせた、『サピエンス全史』の著者、ユバル・ノア・ハラリ氏による人類の歴史に関する説では、ホモサピエンスが地球上に生き残り、あらゆる食物連鎖の頂点を獲得し、人類をかくも発展させた理由として、7万年前の「認知革命」の結果であると言っています。

この説はほぼ世界中で定説になりつつあります。

約250万年前に、アウストラロピテクスから進化して、人類の祖先が生まれ、約200万年前にはそこから、現在の人類以外の人類も進化しました。

例えば有名なネアンデルタール人のホモ・ネアンデルターレンシスや、北京原人やジャワ原人のホモ・エレクトス、その他、ホモ・ソロエンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・デニソワなど、他にもたくさんの種類の人類が同時に生きていた時代がありました。

現在の人類のホモ・サピエンスが生まれ、生きていたのは15万年前。
その頃には、ネアンデルタール人や、ホモ・ソロエンシス、ホモ・デニソワなども生きていて、ホモ・サピエンスは、アフリカで細々と暮らしていただけだったのが、なぜ現在ではただ1種類生き残り、文明を築き、世界を征服することができたのか?
これが、『サピエンス全史』の問題提起です。

『サピエンス全史』では、7万年前にホモ・サピエンスに起きた「認知革命」だといいます。
さらに『サピエンス全史』では、その後の「農業革命」と「科学革命」が起きたことが大きいとしていますが、それは認知革命があってのことです。
そして、それらの2つは、認知革命の強みをより強化するものとし、『サピエンス全史』では、この認知革命こそがホモ・サピエンスを現在まで、地球全体に繁栄させている要因だと言うのです。

「認知革命」とは一体どのようなものなものか?
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人の幸・不幸を決める価値観

先回の記事を書きながら、自己の進化や成長にとって無意味な怒りや反発の原因に目線が映りました。

先回記事からも見えてきました「価値観」 の強要です。

 あらためて「価値観」とは、を思い起こしてみてください。
日常的にも、将来的にも、自分にとって何を重視し、何を大切にし、何に支えられ、優先しているか?

お金が一番、家族が一番、成績が一番、人付き合いが一番、成功(学歴、肩書き)などのステータスが一番、やっぱり宝石、いや家じゃない?高級車だよ!など自分にとって幸せと感じられる要素、一番価値ある条件が何かという考え方のことですね。国によっては何よりも宗教を優先する場合もあります。

誰かにとって生きる力になっているようなこと、モノが、他の誰かにとってはくだらない安物の花柄便座カバーのようなものかもしれません。そのように、生きる力を与えてくれたり、くだらない安物の便座カバーのように感じたりする原点になっている、いつの間にか刷り込まれた考え方です。

別のところで産まれ、べつの道を歩いて育った他人同士が価値観を共有することは難しいものです。

似たような環境で一緒に暮らしている家族でさえも、違う価値観を持っているものです。価値観はこれまでの経験や環境、性格などさまざまな要因で決まります。
一部分で共有できたとしても、すべてを共有できないのが価値観です。

日本では強要罪という罪がありますが、義務のないことを強要する場合に成立するそうです。
ところが日本においてこの強要罪が成立したということをあまり聞いたことがありません。
もし、このような罪が日常茶飯事に成立していれば、もっとメジャーな言葉として使われていたでしょう。それを可能にしているのが常識という文化的価値観ではないでしょうか。

そして、近年話題が絶えないようになった、パワハラを始めとする多くのハラスメントの実態は、こうした常識・文化がパラダイムシフトしている時代の過渡期にある現象と言えるのではないでしょうか。

(パラダイムシフト(英: paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することをいう。パラダイムチェンジともいう。ja.wikipedia.org/wiki/パラダイムシフト

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兄と奏でるノクターン

 

NHK ドキュランド 「兄と奏でるノクターン」(2020年11月13日放送)を見て


 知的障害を持ちながら、音楽の才能を開花させていく兄ウン・ソンホ(32歳)と、弟ウン・ギョンギの密着ヒューマンドキュメント。

兄ソンホは身の回りのことはほとんど自分ではできない。そんな兄にかかりっきりになる母への疎外感を持ち、同じように音楽の才能を持つ弟のウン・ギョンギは、同じくピアノを弾けるが音大を受験するも落ちてしまい、母親と兄への苛立ちが大きくなっていく。

 

兄ソンホはピアノ、クラリネット、バイオリンを弾きこなすけれど、顔を洗うこともおぼつかず、髭を剃るのも母の仕事だった。

 

 

障害児の可能性を伸ばすために奔走する母親の愛情差別に嫉妬し、弟ギョンギは職を転々とする不安定な生活を送り、母親の言いなりに生きていけば良い兄に冷たい態度を変えようとしない。兄を馬鹿にし、母には暴言を吐く日常に、本人自身もウンザリしていた。

ギョンギは「僕が障害者だったら今より幸せに生きられる」と言う。そして、障害者の兄ソンホと同じくらい時間とお金を母が自分にかけていたら、今頃僕は成功していたと語る。

 

 

そんな中、ギョンギは母の代わりに兄のロシア演奏旅行に同行することになる。演奏以外には何一つできない兄ソンホの面倒を見るギョンギ。兄のソンホは至れり尽くせりの母がいない海外演奏旅行に不安を隠せない。そんな二人をカメラは丁寧に追う。

そして迎えた本番当日、緊張しながらも弟ギョンギは、兄の髭剃りやタキシードの着付けの世話を、かいがいしくする。今日はのソンホはクラリネット演奏。そしてピアノ演奏をギョンギが担う。

息の合った二人の演奏。ギョンギは初めて曲に乗せて兄と語らうことができたと感じていました。心を通わせる二人。兄が「大丈夫だ、俺についてこい!」と言っているように聞こえたのです。初めて兄が兄らしく見えた瞬間でした。

会場は湧き、アンコール! 曲は何と「風笛」でした。
そして兄と弟はこれを機会に、二人が助け合って、互いの幸せを成就してゆくことでしょう。思わず涙しました。機会があれば是非見て欲しいドキュメンタリーでした。

 このドキュメンタリーで「言葉は不完全」ということを再認識しました。。そしてそれを補う人間の関係性には「嘘のない媒介」が必要なのでは?と。音楽がその役割を果たしたドキュメンタリーでした。