ジョン・マルコビッチ
他人の脳へ入り込むという斬新なアイデアが私の好奇心を刺激し、実はこの映画を観た頃、映画がきっかけになって、人の脳内世界へのアプローチが秘かなマイブームにはまっていたことを思い出しました。 そのお陰で、目に映る現実には個々千差万別の世界があることを実感しました。誰にも同じ世界が展開していると信じていた私でしたが、世界があって、それを見る我々が存在するという考え方がガラリと逆転し、観る人によって世界は少しずつ違うものになるということを知ったような気がします。
少し話がズレますが、最近友人と「インドラネット&アカシックレコード」について話しました。インドラネットとはインターネットの語源にもなっているそうですが、インドラ(帝釈天)の網の話です。帝釈天とはインドの須弥山の頂上に住み、釈迦に従う武神で、トラさんでお馴染みの柴又の帝釈天のあれです。
インドラネットは、その帝釈天が須弥山の頂上から世界に網を投げたという、その網のことなのですが、その網のすべての結び目には宝玉が編み込まれています。宝玉は隣接する宝玉を映し、網のすべての宝玉はすべてを映し合うという仕組みです。つまり帝釈天が放ったインドラネットには世界中の情報が写し込まれ、世界のどこかの出来事は瞬時に広がり世界中が共有する、というアカシックレコードそのものだったのです。
サイババブームの頃の一時期には、アカシックレコードのリーディングは超能力と考えられていましたが、実は古代インドではこのような全てを映し出す網という概念を持っていたということで、それはすべての人に内包されているものと考えられていたのです。
話を戻しますと、他人の脳内を覗くという行為は特別そうしなくても、このアカシックレコードやインドラネットの概念を理解すれば、量子力学的な「非局所性」という作用があるということを裏付けているように思います。つまり、意識を向ければある程度は誰でもその人の脳に入ることは可能なのではないかと思うのです。
「マルコビッチの穴」はそうした観点から制作しているということはないのでしょうが、どこかでインドラネットのシンクロが作用して作者のアイデアとして喚起したのではないのでしょうか。いづれにしてもこの物語によって迷宮へと誘われることは確かです。また、興味を示す誰かのことを知りたいときに、意識を向けて相手の眼から自分を観察するという体験もなかなか面白い体験です。おためしあれ。
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