意識のちから

信念の力はスペック力に優る

自分を信じると書いて「自信」という言葉ができあがります。自信とは信念の力にほかなりません。スペックの力とはご存知の通り、これができる、あれもできる、という機械では機能性のこと、人の場合は知的能力、数学に強い、ITに強い、理系は得意、アスリートなどの身体的能力では走りが得意、泳ぎが得意、感性の能力においては芸術、芸能、文化系などいろいろな特技の能力を指します。
このような特技を持つことはもちろん自信の一端につながるのですが、『持続可能な自信』ということになるとどうでしょうか。「スランプに陥る」ということをよく耳にします。そんな時でも信念に裏打ちされている『自信』があれば鬼に金棒ではないでしょうか。

これを可能にするには、自分自身の内側に絶大なる信頼をおかなければなりません。自分自身への評価を他人に依存することを常としている多くの人は、自分以外の外側の評価に翻弄され、「気休めの自信」にしがみつきやすくなります。ちょっとした称賛や、低い評価に一喜一憂し、ココロが安定しないと傷つきやすく、つい周囲に迎合してしまう。そうなるとどんどん自分から遠ざかり、自分を観るより周囲の顔色ばかりが気になるという結果を導きます。

 称賛を浴びているうちは幸せと自信が得られるでしょうが、ひとたび周囲の目が自分から離れた途端、自信は喪失し、途端に不安、恐怖などの不幸が襲いかかる、そうなると負のスパイラルに巻き込まれるように、そこから抜け出すこともままならない、という現実を経験した方も多いのではないでしょうか。
私は常々、人はスペックを身に着ける前に、根拠がなくても揺るぎのない「生きる自信」を身に着けることのほうが大切なのではないかと考えているのです。自分のことを自分が誰よりも信じられるはずですし、自分が一番自分を愛せるはずだと思うのです。それができて初めて他の人への愛を向けられるのではないでしょうか?

自分をないがしろにして、誰かに認めてもらい、注目され、大切にされたいと願うことは、本当の幸せ「持続可能な幸せ」ではなく「気休めの幸せ」を求めていることになるということを、気づいていない人たちの欲求のように思います。
つまり、自分は誰かに愛され(多分本当の愛ではなくご都合主義の偽愛)、好かれ、注目されることで初めて自分の価値を感じられると思うから、相手の目が自分に向いているかどうかが気になり、束縛や支配という行動に走ってしまうと思うのです。

自分を愛することで自信が湧き、余裕ができれば幸せをかみしめ味わうこともできます。すると周囲の人の幸せを願う気持ちも生まれるのです。それが『愛』であり『慈悲』というものになるのだと思うのです。この『愛すること』を知ことは、この上ない幸福感に満たされます。相手の目が自分に向いているかどうかということよりも、その人が幸せかどうかのほうが大切になります。

“誰かの幸せを願うとき自分自身の内に幸せホルモン(オキシトシン)が分泌され幸せな気持ちを得られる”といわれています。
愛されることを求めて『愛する』を経験されてない方、一度自分を『愛する』からはじめてみませんか? 

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