共創空間

「感情」は自己責任‼ 2

  本題に入る前に、今日、一人言で紹介しました川越美和さんの「孤独死」のニュースに大変衝撃を受けました。アルコール依存症に重ね、抗うつ薬に頼る生活を続けていたとのこと、東京都内のアパートで変わり果てた姿で発見された。死因はあきらかにされず、状況から察すると、「緩やかな自殺」もしくは「セルフ・ネグレクト(自己放任)」と言ってもいいのかもしれません。多剤投与の先にセルフ・ネグレクト、自殺という悲劇が起きても、薬を処方した医師はなんら責任を負わないからです。外来に来なくなったら、それで終わり…。と書かれていました。

 一方、先日『金スマ』の番組に、貴乃花の息子、「花田優一(21歳)」さんが出演。
高校生でやりたいことを見つけるために、単身アメリカへ留学、妹が高校へ入る前に自分の道を見つけなければと。その後職人の道に憧れ、イタリアの靴職人へ弟子入り。そこで彼は日本流をやり通す。師匠になにもかも聞くことをせず、「盗む修法」を選び、最低自分の答えを持った上で、それが良いのかを聞くやり方で学んだ。これは父「貴乃花」からの教えでもあった。甚平を着て作業所に通い、同僚との飲み会にも参加せず、独り、ただ修行に励んだ。彼は言う「誰も友人がなくなると何も怖くなくなりますよ、どっぷり自分の世界に浸れるので」と。この言葉を聞いて、わずか21歳でこの境地を得るとは?と驚きました。
 「人は充実感こそ、こころの栄養となり薬となる」と私は信じています。そして充実感は他人や自分の外側から得られるのではなく、自分自身で料理するように創りだすものであると信じています。このことを端的に表すような二人の情報でした。

2-1・仏教にも矛盾があった

 さて、前置きはこれくらいにして、いよいよ維摩が釈迦の弟子たちをどのように論破し、人々を教え説いていくかを観て行きましょう。
以下は“『100分de名著』 維摩経テキスト(釈 撤宗)”より引用しました。   
 維摩が病気であることを知った釈迦は、自分の代わりに弟子を維摩の見舞いに向かわせようと考え、弟子の中のナンバーワンのづ脳を誇り「智慧第一」とも称される舎利弗に声をかけました。
「維摩さんの御見舞いに行ってきてくれませんか」
 尊敬する釈迦の頼みなのだから二つ返事で引き受けてもよさそうですが、舎利弗は渋りながらこう答えました。
「世尊、それはご勘弁願います。とても私にはその役目を果たせるとは思えません」
以前、舎利弗は維摩にやり込められたことがあったからです。あるとき、舎利弗が林の中で静かに瞑想していたところ、維摩がやってきてこう言ったそうです。
「舎利弗さま、必ずしも座ることだけが坐禅ではありません。坐禅というものは俗世間の中にあって、身と口と意(こころ)を現わさないことなのです。何もせず、心の働きを止め、しかも、もろもろの俗世間の行いをするのです。修行を捨てず、俗事をする。これが坐禅です。こころは自らに向くものでも、外に向くものでもありません。これが坐禅です。世間の種々の見方、考え方を知りながら仏道を修行する。これが坐禅です。煩悩は起こるに任せ、しかも心が平静である。これが坐禅です。もしこのような坐禅ができるならば、仏もお喜びになるはずです」
この言葉を聞いた舎利弗はどういうことなのか理解できず、唖然とするばかりでした。だから「維摩のところに自分が行ったところで当意即妙のやりとりができるとは思えない」と思ったのです。
 舎利弗に断られた釈迦は次に目連に見舞い役を頼みます。目連は舎利弗と並ぶ二大弟子の一人で「神通第一」と称されるほどの能力の持ち主です。しかし目連も断ってきました。なぜなら、以前、街角で在家者 に仏法を説いていたときに、維摩にこんなことを言われたことがあったからです。
「目連さま、在家に教えを説く際には、あなたのように“聖者の道(出家者の道)をお話しするのは間違ってはいませんか。説法とは、ありのままの姿(法)を説かねばなりません。ありのままの姿とは、『すべては変化し続ける、普遍の実態はない、すべては関係性の中で成立している、すべての存在は集合体である』ということであり、その立場に立つことこそが仏教なのです。
 なぜ、仏教はこのような立場に立つのでしょうか。それは執着から離れるためです。自分という存在に不滅の実態がないだけでなく、すべての存在には不滅の実態がないということを体得すれば、虚構にすがることなく自分の役割を実行して生き抜き死に切ることができるのです。これを『空』、といいます。だからといって『空』をリアルに実感・体得できるわけではありません。なぜなら、言葉にしてしまった時点で、すでに、“ありのままの姿”を歪めてしまうことになるからです。だから、“ありのままの姿”を説くことができないということを、あなたはしっかりと理解した上で説法しなくてはなりません」
 維摩が目連に語った言葉は、仏教の真理ともいうべきものがしっかり示されています。仏教では「生きることは苦である」と考えます。この場合の「苦」の原義は、「思い通りにならない」といった意です。人生のすべてを思い通りにできる人はいません。だから「思い」のほうをなんとかしなければならないのです。ここでは“ありのままの姿”という言葉を使っていますが、“ありのままの姿”とは「こうすべき」とか「こうありたい」といった自分の「思い、執着」を捨てた状態のことです。維摩はそれこそが仏教が理想とする到達点だと言っているのです。
 ただこの考え方を推し進めていくと、仏教自体を否定することになってしまいます。すべてのことに執着しないのが理想なら、仏教の価値体系や意味にさえ執着すべきではないということになってしまうからです。仏教をどんどん突き詰めていくと、結局はそこに到達せざるをえません。そうしたこともすべてわかったうえで、維摩は「執着を捨てる」ことを語ります。
以上引用終わり。

 

・私見
 以上は“釈 撤宗”さんの『維摩経』および仏教の解説です。
はじめに、私も数十年間出家僧の立場でありながら、疑問や矛盾を抱え、それでもなお僧にしがみつき、僧門から足を抜くことができなかったのです。最近になってやっと還俗(僧を捨てて在家に戻る)の決心に至り、触れることを避けていた仏教に正面から対峙できるようになりました。この経緯をカミングアウトしておかなければなりません。
さて、ここに書かれているように、釈さんもはっきりと「仏教の理想(こだわり、執着を捨てる)を追求すると、仏教自体を否定することになる。」とそう言っておられます。また、仏教では「生きることは苦である」という考えから、その苦を脱する方法として悟りを開き、解脱(輪廻のサイクルから脱出)することを説いています。
 そもそも“「生きることは苦である」と考える”が、『空』の理念から外れた固定観念ではないのでしょうか。認識したり、思考したり、固定観念をはずすことを説く「空」の思想が、ここでは省かれています。
「思い、執着」を捨てた状態がここでは“ありのままの姿”つまり「空」であると言いながら、なぜ「生きることは苦である」という観念・認識が基本になってしまっているのでしょうか。「生きることが苦である」から、生きているうちは苦に苛まれる。そのために解脱、悟りが必要になり、すべてを否定する「空」の思想(これも観念?)も生まれたような気がします。
つまり死ななければ苦は去らない。生というこの世よりもまだ見たこともない死後の世界に価値を見出し、この世の成仏の可能性を極力低くすることによって、仏教の教えの必要性を高め「苦」という固定観念を更に強固なものにしていると思のですが、皆様方はどのようにお考えになられるでしょうか。
インドにおいては、死んですぐ(49日後)に生まれ変わるとされているので、死者を祀って供養することもありません。日本では死者が生まれ変わる時期は決められていないので、いつまでも供養し続け、生きているもののために死者を喜ばせて働かせようとします。
このようなことも実は仏教の真理からは外れています。死者の供養も布施の一つなのですが、「布施」とは執着を捨てるトレーニング方法のはず。「布施」によって功徳を得たり、幸運を願うことも真理から外れています。 
輪廻の思想では、なかなかそこから逃れることができず、結局人間は生まれ変わり、死に変わりしながら、いつまでも、もがき苦しむ罪深い存在であることを人々の遺伝子にまで浸透させてしまったような気がします。
 ところが、現在の私たちの世界はどうでしょうか、その当時のような強固な身分制度とか、衣食住に関する欠乏、そして一部の国を除けば戦いにまみれていた国々は戦いを捨てています。生きるための障害は大幅に改善されていると言っていいのではないでしょうか。
ブレグマンが言うように、当時からみればユートピアなのではないでしょうか。とはいえ、当時よりも、もう少し複雑な苦の要素に悩まされていることは確かでしょうが、解決策がないわけではありません。つまり、生きることに価値を見出そうとする前向きな人々が増えたために、解脱・悟りを求めて「空」に生きたいと願う人は皆無に近くなっているのではないかと思います。出家僧侶でさえも「空」を実践しようと試みる人に出会うのは難しいでしょう。
また、仏教は言葉では何も説明できないと、言葉を捨てることも説いています。ところがあらゆる仏教書には難解な仏教用語がならび、僧侶はその意味をすべて理解する必要があります。お坊さんがその難しい言葉で説法すると「ありがたい、ありがたい」と人々は手を合わせるのです。そのことも本当は仏教の真理から外れているのですが、拝まれた僧侶は気分よくそれを受け入れています。そのどれもこれも「生きることは苦である」という仏教の根源的考えが、人々を怯えさせ、怖れさせているのではないのでしょうか。
もし、「生きることを価値あるものにするのは自分自身」という考えを基に、その方法を明らかにする学問が普及すれば、仏教は不要なものになるのかもしれません。すでにそれは科学の各分野で始まっているようです。
 

 

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