快のままに

『人を超える存在』への疑問(続)

神が禁じた『快』 
Topページ“このサイトについて”の中で触れた疑問について、そこでは『神』が人を不完全にしているのではないかという疑問を提示しました。更にここでは神によって禁じられた『快』についてお話したいと思います。

中尾弘之「快の行動科学」のなかで、“行動の最後の目標”として「快を求め不快を避けることが究極的にすべての行動を決定する価値観になるのであり、人の行動はすべて快を目指す」と言っています。

『快』は英語でプレジャー(pleasure)に相当する。ヨーロッパの歴史をひも解いてみると、とりわけキリスト教以後、自然は物理化され、快は断罪された。中略

「肉体の快は本質的ではないというように身体の快を軽視している。(引用)

キリスト教ではイエスの磔という「犠牲」(究極の不快)を積極的に背負う行為を崇めるに値すると認識し、そこから信仰が始まり、イエスの犠牲の上に自分たちの生が成り立っている、そうである以上自分たちだけが「快」を求めるなど罪である・・・といった概念文化が欧米人の底流にあってもおかしくありません。
日本においても、「耐える」ことへの称賛の風習があり、積極的に「快」を求めることには消極的というよりも“悪”に近く罪悪感を抱くことが多いのではないかと思われます。

神仏が我々の苦しみを救い上げてくださる。つまり、生きることは苦であって当然。という観念は古くから日本にも浸透しています。
「苦労は買ってでもせよ」ということを言われた経験はありませんか?苦労の数だけ幸せがやってくる。苦労するから幸せにもなれる。など昭和生まれの私たちは当たり前の常識として頭に叩きこまれているのです。そんな常識からは「快」を積極的に求めるなどもっての外なのです。
このような思想の始まりはやはり『神』への崇敬から出発し、神による快の断罪がもとにあるのではないかと思います。

 快感は脳内にある種のホルモンを分泌すると言われています。快楽ホルモンは時として癖(いわゆるある種の依存症)になる可能性を恐れたのかもしれません。

未開の地の少数民族においては、わざわざ脳に快楽をもたらす麻薬様の何らかの植物を用います。そういうことも影響しているのかもしれませんが、先進国である欧米人にとっては、せいぜいお酒に酔うくらいで留めておきたいのでしょうか。アルコール中毒もこの手のホルモン依存が原因なのかもしれません。

 ただ、薬品や飲酒に頼るのではなく、日常的に自ら「快」(嬉しい、楽しい、面白い、気持ちいい、さわやか、ゆったり気分、ときめき気分などなど)に素直になれたら、薬などによる中毒の恐れもなく、自然なかたちで脳内にホルモンが分泌され、心身の調和に「快」が効果的であることを知ることになるでしょう。

 

 

 

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