「異界」という考え方
今年は「思わずカッとなって‼」に関わるニュースが続いています。私たちの生活にも無関係ではありません。
そこで「思わずカッとする」という感情は、価値ある人生に関して無用の長物ではないかという観点から、できればこのような感情に襲われないためのあれこれを考えてみました。
人は怒ったり感情が激しくなる(頭にくる、カッとなる)と計算や判断を怠ってしまう事があります。ところがこの感情なかなかコントロールしにくく、頭に血が上り怒りが激高すると交感神経の働きで血流が増えて顔が赤くなるそうで、「意図的」ではなく、「衝動的」に行なったという事で、これまでの人生を棒に振ってしまったという話は枚挙にいとまがなく、今年のニュースには一般人の模範的立場にある多くの人が登場し、人間性を疑われ炎上したということです。
ただ、日馬富士の暴行問題では、カッとして手を挙げた本人よりも、被害者への批判傾向にあるようですが、いずれにせよカッとした方は無傷では収まらないはず。ですが、「カッとする」ということは誰にでもあることで、ましてや横綱を張っている人間に逆らった後輩が、“可愛がり”を受けたのでしょう!という見かたや、“長いものには巻かれろ”風潮の世間評価も強く、貴乃花親方の、そういう体質を改革したい、という考えのぶつかり合いになっている傾向があるということです。
つまり、「思わずカッとなって‼」ということについての人間性批判よりも、暴行の内容や程度を問題にしているということになります。もちろんそれはルール上では重要な問題ですが、人間性という観点から言うと、政治家その他のインテリ分野の著名人とは異なる扱いがされています。
相撲界というのは神的象徴も伴う聖域に近い世界で、相撲協会には多くの文化人や政治家などが関わり、国技(?)の存続と高揚の為に、国からの優遇もあるのでしょう。
巷では、外国人の出稼ぎの場になっているとか、博打、八百長等でヤクザと繋がっているとか、年寄り株の不正取引も聞きますが、そういう体質を変えたいというのが貴乃花親方の考えなのではないかと推察しています。
以下JBpress ニュースhttp://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51687より
日本の国技・大相撲で起きた“子供の喧嘩”に世界は唖然
(八百長や暴力団との癒着から抜け出ていない、モンゴルを妬んでいる・・・)
1年を締めくくるはずの日本の相撲界の九州場所は、場外で“大乱闘”が続いている。
横綱・日馬富士の幕内・貴ノ岩に対する暴行問題だが、事件発生から1か月が経とうとするが、深層はいまだ闇に包まれたままだ。
それどころか、加害者の日馬富士周辺と被害者の貴ノ岩周辺の証言に、様々な食い違いが表面化。事件を取調べ・検証する鳥取県警は、年内にも日馬富士を書類送検すると見られるが、事件の焦点は、貴ノ岩の親方、貴乃花や相撲協会の対応や動向に絞られてきた。
貴乃花のつぶやきに動揺する力士
「横綱や大関が稽古している時間、土俵に顔も出さずに支度部屋で寝ている関取衆がいることに『稽古もしないのによく本場所で勝てるな』と、貴乃花巡業部長が感心しています」
昨年、岡山県倉敷市で行われた大相撲の秋巡業で、三役以下の力士の支度部屋前に、“貴乃花のつぶやき”のような異例の注意事項が張り出され(玉の井巡業副部長=元大関・栃東の名前で)、力士らは当惑した。
日本角界の幕内力士42人のうち、半数以上を占める最大勢力にまで伸し上がったモンゴル出身の力士たち。中でも一番に反応したのは横綱の日馬富士だった。「強くなりたいという自覚があればいいこと。それをいちいち、紙に書かれないといけないなんて」
若手力士の養成を担う横綱としての責務からか、あるいは「稽古もしないのによく本場所で勝てるな」と言われ、その貴乃花の“真意”に反発を抱いたからか、このような反応を示した。
「貴乃花が白鵬や日馬富士など一部のモンゴル大物力士を毛嫌いしている」(角界関係者)と言われる一方、“八百長の噂”が絶えない日本の相撲界。現役時代からガチンコで理事である今も、協会の腐敗体質を批判してきた貴乃花。
貴ノ岩など自身の部屋の力士に立ち入りを禁止したモンゴル会やそれを取り巻くモンゴルマフィアなどの黒い噂が流れる中、白鵬や日馬富士など角界で最大勢力に膨れ上がったモンゴル力士界を引っ張っている当人らにとっては、耳障りな貴乃花のつぶやきだったに違いない。
場所前の同郷人同士の飲み会で上下関係を強いられ、どこまでガチで相撲を取れるのか――。
親方を超え、他の部屋の先輩力士が説諭するのか――。
モンゴル人同士の対戦、まさか、八百長なのか――。
火の手は川の両岸から上がる
角界全体にも言えることだが、貴乃花だけでなく周囲からもそういう疑惑がついて回っていたのは否定できない。
そんな中、外国人力士の日馬富士や貴ノ岩が起こした事件を発端に、「いや、手を出したのは貴ノ岩が先だ、夏の巡業で同郷の力士を殴った・・・」などなど、火の手は川の両岸から上がっている。
今回の日本角界の大きなスキャンダルは、彼らの母国・モンゴルをはじめ、海外メディアでも報じられ、その幕引きに注目が集まっている。しかし、報道のあり方には、温度差がある。
英国やフランスなど欧州でも人気のSUMO。欧米メディア(英国の有力紙、ガーディアン紙など)は、これまでの日本の相撲界のスキャンダルを取り上げ、協会の隠蔽体質、暴力問題、さらにはヤクザとの関連も深い野球賭博や八百長問題がいまだ、改善されずにいるという協会の構造的問題を突いたものが多い。
一方で、外国人力士でありながら、現在、3人の横綱を輩出し、本国ではスーパースターである彼らが、不祥事などで人気が低迷してきた日本の相撲界を引っ張ってきた自負のあるモンゴルでは、日本の相撲界や貴乃花の対応への批判が目立つ。
最大手のオドリィーン・ソニン紙は、「酔っ払いのけんか」などと、日馬富士と貴ノ岩を非難し、白鵬や日馬富士に挑発的な言動、行動を取った貴ノ岩にも一定の非があるとの見方を示す一方で、人気が急落した日本の角界は、モンゴル人の活躍で復活したと強調。
力士の品格が疑われる今回の事件
貿易関係では中国が台頭していても、時は流れても、日本は黄金の国「ジパング」であってほしいという憧れは、今でも健在だ。
品格を持って力士の模範であるはずの横綱が、相手に暴力を奮うことは決して許されることではない。
角界最高位の地位や技、立場に相応した「(士)師の心」で、後輩力士の言動を諌め、それを貴ノ岩が自覚していれば真摯に受け止め、今回のような悲劇的な結果を生まなかったのではないか、と残念にも思う。
一番の問題は、現役横綱の日馬富士が暴力を奮った事実だ。
しかし、今、その肝心な論点からかけ離れ、両岸から互いが都合のいい情報を垂れ流し、彼らによって、“子供のけんか”だったのを(互いは問題にする気はなかった)、大人が自分の私利私欲、保身のために、政治的に利用しようとする動きが発覚し始めていることだ。中略
今までの不祥事の経験が生かされず
そもそも、角界最高位の横綱の土俵入りには、五穀豊穣と平安の祈念が込められている。横綱にはそういったことから、「心技体」で、すべての力士の模範となり得る威厳で、しかも高貴な品格が求められてきた。
今回の横綱の暴行は最高位の称号に全く値しない愚行だ。これまでの不祥事での教訓が全く生かされていない。
徹底的に自らの膿も出し、日本相撲協会は、喧嘩両成敗の日馬富士と貴ノ岩のみならず、問題を早々に解決せず指導力と誠実さに欠けた大横綱の白鵬や親方、協会関係者全員に厳しい処分を科すべきかもしれない。
世間から見れば、”子供のけんか”でお互いプロの力士。情状酌量の余地と見なされるが元来、相撲は神事であるからゆえ、他の格闘技などのスポーツとは一線を画す。それはモンゴルでも同じだ。
日本を黄金の国と憧れるモンゴルの人たちに、「最も親しくすべき国」と尊敬される日本。毅然とした姿勢で対応してこそ、尊敬に値する国としての「日本の品位」を取り戻すことができるのでは――。
今回の暴行問題は、神聖で高貴な品格を求められる日本相撲界に一石を投じたと言えます。先日の「お笑い中毒」の記事中に池田先生が助言した『異界』という概念はまさしくこの相撲界にも当てはまるのではないかと思うのです。まさに相撲界は異界そのものです。その中の常識に一般常識を持ち込む外国人力士たちの勢力が、結果的には異界を異界と認識できなくしてしまっているように思います。異界の魅力は異界的空気にあるのですから、そこをきっちり協会も力士も認識し、勢力争いに油を注ぐのではなく、「異界」に誇りを持ち、「異界」として堂々と根を張り尊厳を守ることに力を注いでほしいと思います。
この問題をきっかけに、この際私たちはすべての個人や組織に存在する異界を一般とごちゃ混ぜにするのではなく異界として尊重したほうがよいのでは?と感じました。昨今ダイバーシティー(多様性)という言葉が多用され、多様を尊重しようという空気が高まっていますが、多様性よりもさらに色濃い世界を構成している組織、団体、そして個人に対して「異界」や「異界人」という概念は一般や普通を重用する傾向を是正する効果にもなり、一億総○○主義を脱するきっかけにもなったり、更にはその認識が高まれば、普通や一般の常識判断で腹を立てたり、怒りを抑えられなくなったりすることも少なくなるのではないでしょうか。
どんな世界にも異端視される人たちはあります。そんな人を排除するのではなく、異界人と認識すれば、理解できなくても激高は抑えられると思います。その異界的行動が自分の世界に不要なら、共感的人間関係を作れば済むことです。どちらにしても、一般ですべてをコントロールする時代はもう終わりだと思います。一般的な常識だけでは繋がれない世の中になっているということなのでしょう。普通は、とか一般では、という言葉を武器にすることはできなくなってきたと言えます。一般的な常識人間とそうではない人は互いに、お互いを異界人と思えば、それぞれの異なる正当性を論じ合うことなく、平和解決に導く有効手段のように思います。異界が異なる異界を尊重できても、理解し共感することなどあり得ないことなのですから。
私の日常にも「異界」という概念を使って、率先してその観点を利用してみようと思っています。そう考えただけで、何だか心が平和になってくるのですが、不思議ですね。
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