今、なぜアーレント?(4)
第3回は、ナチスドイツがどのように大衆を動員していったかを克明に分析したアーレントの記述をたどることで、前例のない「強制収容所」や「ユダヤ人の大量虐殺」のような暴挙がいかにして生み出されていったかを探っていく、 という内容。
アーレントは、第一次世界大戦の敗戦後、ドイツにおいて大衆社会が本格化していったと指摘した。ワイマール憲法の成立による議会制民主主義が社会を大きく変えたのだ。議会を中心に政治が動くようになり、あらゆる人が政治に影響力を持てるようになる。それは政治に関心がない人たちも、政治に参加出来ることを意味した。皮肉なことに、権利を求めて闘う緊張感が薄れ、政治を人任せにしてもよいという受け身の人たちも増えることになった。それが大衆であり、そこから全体主義運動が生まれるのだとアーレントは考えた。
大衆の特徴とは、政治的な問題、公的な問題に無関心で中立であること。共通の利害や階級意識によって結ばれた政党、利益団体に属さない人々の集団。自分たちが何をしたら幸福になるのかはっきりわからず、方向性を見失っている人たち。全体主義はそうした大衆において発生した動きだった。
そうして生まれた大衆と全体主義がどのようにつながっていくの?
自分の見方が誰かわからない、そうすると、この世界はこういう風に動いてて、それを正すにはこういう見方をする必要があるんだと、つまり、権利とか自由とか民主主義レベルじゃなくて、世界全体の動きを示してくれるものは通常の政党を超えるものが求められている、世界全体がどうなっているか示すものとして全体主義が出てくる。もともと、背後にはユダヤ人が!という話がささやかれていたのに、世界は実はこう動いているんだと、ナチスが壮大な物語を作り始めた。
アーレントは大衆が嘘の世界に利用されていく過程をこう考えた。資本主義が発達して社会構造が変わると、大都市の様々な階層に地方出身者の人々が集中、混在して暮らすようになった。そして、階級や職業が流動し、根無し草になった大衆は、国民国家に自ら積極的に寄与する意識を失い、バラバラの単なるアトム(原子)のようになっていった。 第一次世界大戦で敗戦したドイツは、領土を削られ多くの賠償金を課せられた。そらに、1929年に始まる世界恐慌で経済が大打撃を受け、街には失業者があふれたのだ。不安にさらされた大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心して頼ることが出来る世界観だった。それを示してくれたのが、ナチスのような世界観政党。ナチスは大衆に向かい、現実的利益ではなく、世界や社会の本来の在り方といった理念、優良な民族の歴史的使命といった虚構の世界を訴えた。そこに、とにかく救われたいともがく大衆がすがった。アーレントは、世界観政党が虚構の世界を信じ込ませる方法についてこう言っている。
世界観政党は、まるで秘密の奥義を持つ秘密結社のようなものだった。その奥義に通じる程度によって組織の中にヒエラルキーが生成されていった。そして、奥義に通じた少数の幹部がつく嘘は、下部の構成員の周りを何重にも取り囲むという形で、外の現実世界から守られていた。
スタジオでの解説・・ 例えたら怒られるかなぁと言いながら、伊集院さんは、僕は落語家の世界にいたんです、貧乏とか苦労は芸の肥やしになるんだよと言われるけど、世間では貧乏しない方がいいわけですが、今、僕がこんなに苦しいのはぐんぐん落語が上手くなっているはずだからと、未だにそれを嘘だとは言いきれない、けど、本当かっていうと違う感じ、経済的に希望が持てない時、他の軸をつくり出すこと自体は悪くは聞こえないんですが、と話す。
伊集院さんの場合、それを言ってくれる人は、それを乗り越えた先輩というのが前提、明らかに自分より上だから信じる根拠はそれなりにあると思うが、政治や経済になるとそんな根拠はない、と指南役は答える。
さて、端々に出てくる嘘がとても巧妙。ピラミッド構造の組織というのが、人間の心理として、おまえはまだ下っ端てせ未熟だから教えてもらえないと言われると、やっぱり知りたくなる、そして知ろうと努力する、するとシンパだった人が上がってエリートになると、党員ではわからなかったことがわかるようになり、側近までになると本当のことがわかってくる、というしくみ。これは、オウム真理教の組織運営と似ている。そういう生き甲斐を下から上まで与えてやるような、人心掌握術がどこからどこまで意識的にやったかわからないけど、結果的に上手くやった。 これが機能し出すと、上がめちゃくちゃな事を言っても、もうひとつ上がると、わかるようになるんだろうなと思ってしまう。
こうして大衆が信じた世界観がどうしてユダヤ人の絶滅収容所という結果につながっていったのか。
1939年、第二次世界大戦が始まると、ナチスドイツはその世界観を実行に移し、支配地域のユダヤ人を強制移送、収容所に隔離する。アーレントは、この絶滅収容所こそ、「人間は完全に支配されうるものである」という「全体主義」の世界観を証明する実験室であったと考えた。
そこでは頭髪が刈り取られ、名前も奪われ番号で呼ばれるようになり、周到に計画された拷問によって、その人格が完璧に破壊されていった。これ事態をアーレントは、人間の無用化と呼んだ。全体主義の支配はとどまるところを知らず、人間の死の尊厳すら奪っていった。
スタジオでの解説・・ アーレントは、死を無名なものにすると言っていたが、どういうこと? 簡単に言うと、食肉のための動物と同じレベルで必要な物質の量としか人間を見なくなっていた。それまでの反ユダヤ主義だったら、ある程度人間扱いした上で、こいつらは自分たちと違う種類の人間だと見ていたのが、いつの間にか、ドイツ社会の異物というより人間社会の外に存在するように敷居を超えてしまったと、アーレントはそんな見方をしている。
なぜそこまで無用なものとして扱えるのか? 人間同士の連帯の基盤は盤石なものではなくて、かなり努力しないと持たないものだが、ヨーロッパの場合は、文化とか制度とかがあったおかげで、何とかなっていた、しかしその制度を徐々に壊していったせいで、人間だからこういう扱いをしないといけないという感覚がどこかで消滅してしまった、とアーレントは考えるに至ったのだろう。
この全体主義というのは、今の我々の問題として起こりうるのか? 例えば、日本では貧困家庭が増え、大学や高校を中退する子供が増えているという話を聞くと、それだったら、そんなに海外援助をしなくていいんじゃないかという感覚になっている気がする。世界というのが自分の周囲だけ、世界が上手くいくかいかないかが、自分の立場や周囲の人たちが良くなるかどうか、それだけに狭まっていく可能性がある、例えば、インターネットの世界は、自分に都合の良い情報だけ見る傾向がある、とずっと前からいろんな人が指摘していることで、自分に都合よい世界の中だけで生きれてしまうようにだんだんなっている、と指南役は言う。
アーレント自身も、全体主義の中で、人々がどうしてそこまで無感覚になれるのかということについて、各個人に関する心理分析はそんなにやっていない。実は、「全体主義の起源」の12年後に書かれた「エルサレムのアイヒマン」(ユダヤ人虐殺の実務責任者アイヒマンの裁判記録)という著書の中では、個人が全体主義システムの中でどういうふうに動くのかということを、より詳細に分析している。
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