『遊びをせんとや生まれけむ』2

 兼近大樹氏を「生き方のスタイリスト」と勝手に称して、彼の著書『むき出し』の推薦者の動画のURLと共に、ざっくり著書のご紹介をしました。
http://neusolution.matrix.jp/neu-solution/2489.html

前回触れましたように、人は共同体の色に簡単に染まってしまう動物であることがお解りいただけたと思います。最小共同体の家族間では遺伝の影響で家族の価値観、体質が似通うことは当然です。

ここで家族の外側に存在する、中間共同体、例えば学校、会社、地域、クラブなどが、家族間価値観と共に私たちに大きな影響を及ぼしていることを再認識したいのです。

「お金の量と知能は比例する、という身もふたもない現実」

先の兼近氏の例のように、貧困や、母子(父子)家庭などの過酷な環境に育つ子供は、家庭にぬくもり、安心を得られないことも多く、その上、学校嫌いが加われば、まともな中間共同体への参加は無理と言えます。
『知能テストの結果と、収入の多寡には明確な相関関係がある』ということが判明されています。 これは考えてみれば至極当然で、金持ち世帯は金に余裕があるため、子どもにも惜しみなく英才教育を施すことができます。また、親は時間的、経済的余裕がある上に賢いゆえに、子どもに対し勉強以外の様々な有益な体験をもさせることが可能です。そうやって育てられた子は当然賢く育ち、その子どもにも同じような教育を施すという循環ができます。

そして、社会は賢く能力のあるものが勝ち組となって幸せを得てユートピアに住むことができる。それ以外の多くの落ちこぼれ達はディストピアの世界で一生苦しみながら死んでいくしかない。

これが「無理ゲイ」「親ガチャ」「遺伝ガチャ」で想定された現実物語の姿であるというお話をしてきました。

こんな考え方もあります。
「無理ゲイ社会」では個人の能力主義・実力主義から、中間共同体への依存度が低くなり、次第にその必要性を失い、やがて中間共同体は解体され力を失う運命にある。
うざったい柵(しがらみ)から解放され自由に選択し、謳歌、集中できるメリットがあるからです。
反面、それまで地域、会社、その他の組織の傘下に入ってパラサイト的に中間共同体に保護されていた依存者たちにとっては、ノミ二ケーションや付き合いもなくなり、助け合える仲間もいなくなって、たとえ困難に出逢っても「自己責任」の名のもとに、自分ですべてを引き受けていかなければならない「孤独」を抱えて生きてゆくことになります。 >> 続きを読む

『遊びをせんとや生まれけむ』1

遅まきながら、あけましておめでとうございます。

2022年最初の投稿です。

皆様、良き2022年をお迎えのことと思います。

私的には、昨年冒頭から始まった「癌」との出会い、手術から一年を経た2022年正月でした。
手術の後遺症との共生にも馴れ、リハビリのつもりで近場の小旅行を敢行しましたが、思った以上に調子よく、3時間もの歩行も余裕で、同行者に迷惑をかけることもなく、久方ぶりの非日常をすっかり満喫し、堪能して帰ってきました。

世間は?と言うと、正月が過ぎるころから徐々に、感染力が強いと言われるコロナ新変異株、オミクロン株が急速に感染を広げる状況が続いています。感染された方には、心からお見舞いを申し上げます。そうでない方には、充分に心しながら日常をお送りください。

さて、そんな中、元旦未明に放送された「朝まで生テレビ」は、日本の現状と行く末を語る人々の「確固たるビジョン」の提言がぶつかり合う様子につい巻き込まれていました。

個々に独自の「ビジョン」を投げかける人の中に、組織への忖度、コバンザメ的な人がその色合いを明確にしたのも面白い状況でした。またホテルのTVで偶然「マイケル・サンデル 白熱教室」の放送に出逢い、日本、中国、アメリカの大学生たちによる討論を観る機会を得、会話の主題にもなり、若者の意見にも触れ、大変有意義な時間を共有できました。

その中で中国人学生は、他の国の学生たちと比して、生活に満足し、国の政策に不満がないと語る人たちに皆驚き、洗脳の怖さを知りました。

別の角度から見れば、幸せを得られているとも言えるかもしれません。それを世界中に知らしめたいという意図が政府側にはあるのでしょう。

閉鎖されている情報空間においてはこのような思考のコントロールは容易と言えますが、それに気づいて異なる行動をするものは、簡単に排除されてしまうでしょう。

中国共産党政府は、国民全体を都合のよい方向に育成し、政権を安定させられるため、小学校からプロパガンダ、洗脳教育に力を入れている。そのため政権側の思いのままの大人になるのは当然でしょう。

中国においても、格差社会は厳しいようで、若者たちの間に「寝そべり族」と呼ばれる、最小限だけ働き、ほとんどの時間を寝そべって過ごす若者が出現しています。
このような情報が発信されるとすぐに削除されるということです。

 

ところで、若者を中心に人気上昇中の『EXIT』ボケ担当の兼近大樹の小説『むき出し』が最近話題になっています。彼の過去の黒い交際や過ちなどを体験のまま書き下ろし、カミングアウトした、告白自伝的小説です。又吉直樹氏、茂木健一郎氏も推薦しています。
又吉直樹×兼近大樹 本音むき出し特別対談①小説編 – Bing video

EXIT兼近大樹が自伝的小説出版に違和感も…逮捕歴を告白し爆報THEフライデーにも出演、過去の犯罪をネタにし物議 | 今日の最新芸能ゴシップニュースサイト|芸トピ (geitopi.com)

2019年10月14日(月)11:22
EXIT兼近大樹さんは4日放送の『爆報! THE フライデー』(TBS系)に出演し、番組では貧乏だった少年時代から犯罪に手を染めるまでのことが再現VTRで紹介され、周囲も片親や両親がいないというのが当たり前の環境で、2011年に逮捕された売春斡旋事件についても、「法に触れるということは分かってた上で、僕が未成年のころは『それの何がいけないんだ』でしたね」と当時を振り返っていました。一方の窃盗事件に関しては逮捕、不起訴処分になったことは伝えたものの、本人が事件の詳細を明かすことはありませんでした。
番組放送後にツイッターを更新したEXIT兼近大樹さんは、「爆報フライデーせんきゅすでした!!兼近の人生に関わって下さった皆様に感謝します。そしてお騒がせして本当に申し訳ございませんでした。」と謝罪の言葉を綴った上で、「真実を全て話しましたが、もちろんテレビでは描けない部分も多々あります。兼近自身も知りたい方には何もかもさらけ出したいと思っていますので中卒のチャラ男が初めての自伝的小説に取り組んでいます。そこに事細かに書きますので、応援してくれる方もそうでない方もそちらを手にお取り下さい!!」と、自伝的小説を執筆中であることを明らかにしました。

髪をピンクに染め、派手なファッションに身を包み、チャラ男のキャラクターを呈しているものの、彼の実態は観るごとに外見とは異なる人間として魅力的キャラクターに想えてなりません。 >> 続きを読む

優先する行動に秘められた方向性(ポリシー)

行動こそがすべてを語っていることについて、また、つい優性しがちな行動について少し触れました。NEUノイsolution 行動こそがすべてを語っている (matrix.jp)

それは優先する行動にこそ自身の現在(資質、現実)、そして目指している、あるいは、進む方向性が顕現しているからなのです。
意識が向かっている方向、その方向に進むことが、今の自分にとって一番抵抗なく、最優先できるということです。

たとえ一番大切だと思っていることが他にあったとしても、やはりそれよりも優先することは、とりあえずそれを今は一番優先しなければならない、つまり(優先する人、コトを大事にすることは)何よりも犯すことができないルールになっているからです。

つまり、自分で自分に犯すべからざるルールを課す。そのルールは自分にとって絶対と言えるほど自然で、当たり前のことなのですが、言い換えると生きる上で一番重要な事となっているといえます。そのルールの意味こそ、向かっている方向なのです。

幼少時代、保育園や幼稚園に行くようになった3歳児、4歳児は、初めてルーティン生活に入ります。
始めは一人前になったような感覚と、新しい生活変化に興味深々で早く起きてしまうかもしれませんが、慣れてくると朝寝坊をして、ママに起こされ、眠い目をこすりながら無理矢理、気合を入れて引きずられるように園に行くこともあるでしょう。
園の環境が面白く、毎日が楽しくてしかたない場合は、明日の来るのが待ち遠しくて、起されなくても起きていたかもしれません。
定時に起きる、そのために定時に寝る、定時に食事をする、歯を磨く、顔を洗う、お風呂に入る…というようにルーティンのルール通り行動することを続けていくと、知らないうちにそれが当たり前のこととなってきて、自動的に行動するようになります。
このようなルーティン行動は、親の価値観、方向性、習慣が大きく影響します。そのため、子供にとっての自由度はその枠内に限定され、ある年齢までは、それを当たり前になぞる生活を続けます。

幼稚園、保育園に通うようになり、多様性に触れることで、少しずつ影響を受け、行動にも変化が出てくるでしょう。そうやって子供社会のなかで自分の位置も明確になり、個性を創るようになります。
更に成長するに従って、時間に管理される生活は益々多くなり、強化されてゆきます。
成長すること=自由度が減少する、という観方をすることもできます。

その自由度をどこまで自己の選択で決められるかが後のキャラクターに大きく関わります。
親の言いつけを良く守り、親の顔色を伺いながら日常を過ごす子供、また親のいうことはいつもスルーして一人遊びにふける子供、言い換えると、リスクを負っても自由を自ら獲得しようとする子供と、親にすべてを託し安全を選択する子供とによって、そのあたりから個性が構築されるのです。

思春期はその第2段階で、同じような選択の機会が訪れます。親への抵抗心が生まれやすく、その時期には自己を新たに確立するチャンスとなります。
あなたのその時期はどのような選択をしてきたのでしょうか?

それは現在の状況にも大きく関わっていることを知ることになるでしょう。
「一人遊びが好き」は大人になっても、老人になっても変わりません。
『三つ子の魂百まで』とか『雀百まで踊り忘れず』は、「幼い頃に表れている気質や特徴は、歳をとっても変わらない」ということですが、正にそれを実感しています。

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行動こそがすべてを語っている

『虚構』に操られる実態

 

虚構が行動に影響するプロセスは、図のようになります。

私たちは、自己の意識によって行動を選択しているかのように錯覚していますが、実はこうして『虚構』に操られた行動をしていることが解ります。

「こうしたい」と思っても、つい他のことを優先してしまったり、不快を感じながらも、つい我慢をしてやり過ごしたり、予定を立てたのに、他者の誘いを受けるとつい断れず、そっちを優先して計画変更したり、ということは誰にも経験しているのではないでしょうか。
つまり、「優先するモノ、コト」が、脳にプログラムされているために、そのような行動を選択するということがお解りいただけると思います。

受動的虚構においては、自分よりも社会のルールを優先すべきという意識が勝ってこのような行動結果を産むということです。
自分を優先させることは『我儘』と言う烙印が押され、社会との不協和を意味するため,自分の「快」はいつも後回しにされるようインプットされているのですね。
つまり、能動的虚構ではなく受動的虚構ががっちり構築されている結果の行動と言えます。

このような観方をすると読者の方からは「みんなが好き勝手してしまったら纏まらなくて困るだろう」という声が聞こえそうです。

そういった観点が基になって、理想的な人間の在り方をルールに取り込んで管理しやすいようなシステムが拡散されたのかもしれません。大元は宗教思想が背景にあったと言えるでしょう。 >> 続きを読む

(続)物語を創りながらその中で生きている私たち

 

「能動的虚構」構築の勧め

 先回、「この世は「虚構」で出来上がっている」について、仏教的見解と歴史学者ハラリ氏の見解から紐解いてみました。

一朝一夕には、それを鵜呑みにできない方々が大半なのではないかと察します。
だからこそ、何万年も前から仏教上で説かれた根本教理(縁起)が、現代になってもなお「由来」や「ジンクス」としての意味にしか使われていないのだと思います。

もちろん、物語や噂話が人類を団結させ、集団の力のお蔭でサピエンスは生き延びたことも事実です。同時に人間に必要以上に恐怖心を植え付けるような無用な物語、噂話も無数に作られたことも事実です。

それらを分別する能力を持たなかった時代には、それらすべてを信じ、怖れを抱き、そこから逃れよう、救われようと「神」という人を超える存在を生み出したことも否めません。それは「不安」を脱する手段となり、人間の寿命を延ばすことにも効果的だったかもしれません。

 2021/10/10の記事NEUノイsolution (続) 社会変革への大胆な提言 『モモに学ぶ時代の牽引者たち』 (matrix.jp) にマッチポンプについて触れましたが、ここでもまるで、同じことをしているように思います。

不安を煽って、救いの手を向け利益を得る、というこのような手法は詐欺の手口としてよく耳にします。ところが、現実においてもこのような手段を用いた商法は公然と行われ、誰も非難する者はいません。時々はブラック企業として名前を上げられる企業がありますがそれは、初めから詐欺を目的とした企業です。

そうではなく、確信犯的に公然と、政治の世界や社会的重大企業で行われているということを申し上げたいのです。上記の「神」という存在を創り出したルーツと同じです。

「不安」を解消するための商品は山ほどあります。私たちは「認知革命」という虚構を創り出す能力のお蔭で、「不安」を煽られることに極端に弱い性質を備えてしまったとも言えるような気がします。「保険」や「貯蓄」という概念はその代表的なものではないでしょうか?

これらは商用に誰かのアイデア(虚構)によって作られたものです。また文化、慣習、普通の概念、世間、諺、噂、ヒエラルキー・・・・・・・・・・・・・・・・・・も同じ人工の虚構です。

そして私たちの脳内プログラムの素材はほとんどこれらの「受動的虚構」から採用し、関係性を築き上げたといって言い過ぎではないでしょう。 >> 続きを読む

物語を創りながらその中で生きている私たち

「能動的虚構」構築の勧め

 私たちをはじめすべてのモノ・コトが虚構の中で存在していることを最初に気づいたのは仏教の祖、『釈尊』(紀元前7~5世紀ごろの人とされています)でした。

釈尊はそれを『縁起』という言葉で説いています。

 『縁起』とは?
 日々、瞬間々、様々な縁が起り、それらが集まり、また消え去りながら変化していく虚構を、あたかも独立自存の現実、あるいは我と妄想していることを戒め、あらゆる存在、あらゆる現象の実体を否定しました。私はこれを「縁起イズム」と呼んでいます。

縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ [2] [3] [1] 。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す [2] 。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる [2] [3] 。因縁生、縁起法、縁生、因縁法 [2] 、此縁性 [3] [注釈 1] ともいう。

参照: ja.wikipedia.org/wiki/縁起

仏教における真理を表す一つの言葉で,詳しくは〈因縁生起〉といい略して縁起という。現象的事物すなわち有為(うい)はすべて因hetu(直接原因)と縁pratyaya(間接原因)との2種の原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説であり,〈縁起をみる者は法=真理を見,法をみる者は縁起をみる〉といわれる。それは基本的には〈有るが故に彼有り。此無きが故に彼無し〉あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉と規定される。

参照;縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

この説はナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ)、2~3世紀の人)によって、縁起説と密接に結び付けられて深化しかつ拡大し、縁起―無自性(むじしょう)―空(くう)として確立した。すなわち、いっさいのものはそれぞれ他のものを縁としてわれわれの前に現象しており、しかも各々が相互に依存しあっていて、その相依関係も相互肯定的や相互否定的(矛盾的)その他があり、こうしていかなるもの・ことも自性を有する存在(実体)ではない、いいかえれば空であり、しかも、そのあり方もいちおうの仮のものとして認められるにすぎないとし、そのことの悟りを中道とよんでいる。

参照:縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

ところが、このように仏教の中心思想である「縁起」の思想は、時を経て継承される中で、尾ひれがつき、複雑化されたことにより、現在では異なる意味で使われるようになりました。

1,神社仏閣などの起源、由来の意味
2,縁起がよい、縁起を担ぐ、などの「縁起」は日常的な吉凶に関わる迷信、ジンクスなどの類を含む意味 >> 続きを読む

「カタルシス」の不可欠性

気持ちいいでメンタルデトックス

私たちの日常は常にストレスに晒されています。
それほどストレスと意識しなくても、「仕事」と思うだけで、「楽しみ」ではないことが多く、仕事に向かうときからストレスの蓄積が始まります。

「カタルシス」という言葉を耳にした方も多いと思いますが、聞いたことがないという方のために「カタルシス」について説明を加えます。

ストレスが溜まったという知らせは「疲れた」ですね。そんな時に私たちは無意識に「カタルシス」を行っています。

  • お風呂に入ってゆったりお湯につかって「あ~気持ちいい~」
    「きょうは自分にご褒美」と、思いっきり豪勢なご馳走を食べて「あ~美味しい~幸せ~」
    疲れているのに頭が冴えて眠れないとき、好きなドラマや、映画を観て共感し感動で涙。
    月末にお給料を確認して、自分の働きを自賛する。
    一週間、一か月の終わりに、仕事でできなかった好きな事(運動、ゲーム、旅行など)を思いっきり楽しむ。

などは誰にも心当たりのあることですね。これらはみなカタルシスを行っているのです。

詳細:カタルシス – Wikipedia

「カタルシス」の意味は「浄化」「排泄」
「カタルシス」は元々、古代のギリシャで使用されていた言葉で、直訳すると「浄化」「排泄」という意味です。

 語源はギリシャ語
ギリシャ語では「katharsis」と書きます。その内「kathar」は「穢れや不浄を清める儀礼」を意味しており、「不浄や良くないネガティブなものを清めてスッキリとした精神状態にすること」を表します。ちなみに英語では「catharsis」と書きます

また、古代ギリシャにおける宗教団体のオルペウス教やピタゴラス教団などでは「罪からの魂の浄化」という意味で使用されていたようです。

アリストテレスが「精神の浄化効果」として説明
前述したとおり、語源をたどると最初は宗教などの場面で使われていた、専門的な用語だったのです。では、なぜ「メンタル面での浄化」といった認識で一般の間でも用いられるようになったのでしょうか?

実は、哲学者のアリストテレスが自身の著書「詩学」の中で「人は悲劇を見ている時に生まれる恐れや憐みを感じることで、無意識に心の奥底に抑え込まれていた同様な感情が解放して、心が清められる」と表しました。
その「詩学」がきっかけとなり「メンタル面がスッキリした様子」といった意味で用いられるようになったのです。

また、「カタルシス」は古代ギリシャの医学用語で、薬を飲ませて嘔吐させたり、下痢させて腸内の便の排出を促す治療を指す言葉でもありました。
その他、精神科医のフロイトも心理学の用語として用いて当時行っていた催眠療法と合わせて「悲しく痛ましい話を聞いて涙する療法」によって、精神的に解放される様子を指しています。
これは現代でも心理学やカウンセリングの場面で「カタルシス効果」として使われています。

心理療法として使われる「カタルシス効果」
不安や恐れ、悲しさやつらさなどのネガティブな感情を言葉にしたり話したり、アウトプットしたりして緊張を解きほぐすことを「カタルシス効果」と呼びます。

誰かに少し悩みを話したり、文字にして書き出したりすることで気持ちがスッキリした経験は誰しもあるでしょう。ネガティブな感情には強いパワーがあり、溜め込むと心と体に支障をきたしてしまいます。
普段の生活の中で湧いてくるネガティブな感情や、過去のネガティブな思い出は「忘れよう」「思い出さないようにしよう」と思えば思うほど、脳に焼き付いたまま記憶が定着し、事あるごとに蘇ってきます。抑えるのではなく、逆に言葉でアウトプットすることでメンタルの状態が改善できるのです。

「抑えていたマイナスの感情が解放されて、気持ちがスッキリした様子」を表す「カタルシス効果」映画や本を読んで感動して泣くこともカタルシス効果です。
登場人物の言動や、物語の中のさまざまなシーンによって感情が高ぶると、言葉に出さなくても涙が出てきます。ギリシャの古代医学では、体から血などの体液を体外へ排出することを「カタルシス」と呼んでいました。

実は、感情が高ぶった時の涙には「ストレス物質」が含まれています。つまり、涙を流すことで物理的にもストレスを体の外へ出している、つまり涙はデトックスなのです。
このように、言葉でアウトプットしなくても、1人で映画や本を読み感動して泣くことで「カタルシス効果」を得ています。

「カタルシス」とは人の鬱積した心がきれいになっていく状態を表した言葉です。心のもやもややイライラなど不安要素や苦悩や怒りなどを言葉や文字にして表現すること、共感や感動で涙することで、不快だった気持ちが取り除かれて安心感を得られる効果のことです。

言い換えるとメンタルなデトックスの作用です。

「カタルシス」は人間にとって必要不可欠なものであることはいうまでもありません。身体の排泄が重要なのと同じくらいメンタル的排泄は無くてはならない重要な要素なのです。

ところがこの「カタルシス」、活用の仕方を間違えるととんでもないことになります。
特にメンタル面の抑圧や鬱積を長い間溜め込み過ぎたことが原因でサイコパスや、苛め、パワハラ、そして迷惑なマウンティングへと発展しかねないこともあるのです。

そこまで、重篤なデトックスバイアスでなくとも、知らず知らず小さな迷惑を犯してしまっていることもあります。

先回❝「知らない」を知る❞についてお話ししました。
これまで示した通り、私たちは自己の内側の鬱積や、抑圧などを観察することが少ないことは既に申し上げた通りです。

そうした、自分が気づかない自己の思い込みや、正義を基に生じた理不尽、不条理の記憶は、いつまでも消えないまま、鬱積されているものです。

そういった知らないうちに溜め込んだ鬱積は、どこかで吐き出す必要があります。
他に迷惑が掛からない「カタルシス」は大いに取り入れ、スッキリさせることは肉体にもメンタルにも必要不可欠な事ですが、自分では気づかないうちに「代替カタルシス」をしてしまっていることがあることに気づきました。

丁度タイムリーな夢を見ました。
まるで映画を観ているようでした。
登場人物は小学生の子供と、若くてきれいで優しいお姉さん、それと私でした。

シーン1

  • 子ども:「お姉ちゃんは僕を弱いと思ってるでしょう?」
  • お姉さん:「そんなことないよ、弱いなんて全然思ってないよ」
  • 子ども:「そう?でもお姉ちゃんはいつも僕を優しく守ってくれるでしょ?だから僕のこと弱虫と思ってるんじゃないかと・・・」
  • 御姉さん:「そうじゃなくて、お姉ちゃんはあなたが可愛いから、守ってあげたくて・・・」
  • 子ども:「大丈夫だよ!僕一人で考えてできるもん」

シーン2
子供自身が自分で結論を出す前に、お姉さんが助けようとしたとき、

  • 私:「ちょっといい?」と、シーン1を持ち出して「こんなことがあった事覚えてる?」
  • お姉さん:「覚えてます」
  • 私:「この子が言ってたのは、このことじゃないかと思う」
  • お姉さん:「えっ!?このことって?」
  • 私:「だからこの子は自分で考えて、自分で結論をだしてから、行動したいんじゃないのかしら?」
  • お姉さん:「でも、困ってるように見えて・・・」
  • 子ども:「僕、大丈夫だよ!」

そこで目が覚めました。
子どもが「僕は弱くなんかない」と感じることも解りますし、お姉さんが「そんな風に思っていない」ということも嘘じゃないのです。

お姉さんが「守ってあげたい」と感じることは、無意識に子供よりはるかに優位な位置から見ているので、そのことを本人が気づかない、というよりも当然のことと思い込んで、子供の自主性以前に指導的立場で行動しているだけなのです。

可愛いと思う心が基になって、危なっかしい様子を見ると「私が助けてあげないと」という使命感に背中を押されて、無意識に助けたり、守ったりすることで、自分自身もホッと安心し落ち着けるということです。

よく「あなたのためを思って」という言葉を耳にしますが、それと同じことですね。
教導の必然性が大義名分となって、愛情の押し付け、親切の押し売りになってしまうこともあり得るということですね。どちらも気持ちいい行為ですから。

このようなシーンは日常的よくあることです。
この夢がきっかけで『守る』こともマウンティングの一つなのだと気づきました。

とすると『愛情』の形としては珍しくないなケースなので、多くの人が勘違いしやすいということですね。。
「愛情」という耳障りの言い言葉は、概念の違いで(解釈次第で)知らず知らず誰かを縛ることになっているかもしれないのですね。

そもそもマウントを取りたい人の特徴は、常にヒエラルキーを意識しています。
自分が相手より上か下か?という意識です。
できればいつも優位な位置にいたいというのが当然の在り方で、無意識に優位の位置に収まってしまうことがあるでしょう。それを相手がすんなり認めない態度を取った時に、マウントを取ってしまう。そしてそれが高じると周りは皆「敵」となる可能性もありですね。。

「騙されないぞ!負けないぞ!」と緊張し警戒心でガードしながら、ゴリラのマウントのようにドラミング(胸叩き)したくなる。
そんな状況を想像しただけで疲れますね。

私たちはそういうことを「知らない」うちにやってしまっているということを知るべきですね。
子どもは弱いから保護しなければならない存在という意識が高じて、転ばぬ先の杖になって、転ぶ前に手を出してしまう親は多いものです。

そしてそれこそが親の愛と思い込むと、親は常に杖の存在となり、子供は当然そんな親の杖に依存し、杖がなくては生きられないことになります。
親はそのことで自己満足し(私がいなきゃダメ)と、大人になってからもやめられません。
やがて自分で考えることもできない、自立できない大人が育ち、指示待ち人間と化す可能性は大です。
そして子離れできない親はそんな大人になった子供を年金で養うということになりかねません。40歳を超えた引きこもり大人が増えているのは、そんなところにも原因があるのかもしれません。

このように「愛情」と思い込んでいたことが、実は「カタルシス」のはけ口だった、ということもある、ということを頭の片隅に置いておくことも必要かもしれませんよ。

可愛い(大切)⇒守りたい⇒気持ちいい⇒カタルシス⇒マウンティングになっていた。
こんな繋がりは日頃意識しないものです。

子どもへの愛情、恋人への愛情、夫婦間の愛情に、こうした偏った「カタルシス」との併用を行っているかもしれないことを、今一度立ち止まって考えてみることも、無駄ではないように思います。また使命感に背中を押されるのも気持ちいい「カタルシス」になるために、つい身を任せるということにもなるでしょう。

自分が日頃どのような「カタルシス」を取り入れているかを観察するだけで、気づかなかった「カタルシス」行動に気づき、そのことが却ってデトックスになるということもあります。

人間にとって「カタルシス」は日常的に排便と同じように、自動的に何らかの形で無意識に行為し、スッキリ感でデトックスを味わいながら、メンタルを保っています。

必要不可欠なだけに、ついつい「中毒性」のある「カタルシス」にはまってしまう危険もあることも忘れないことですね。

観察、注視は、私たちの人生を豊かにするための便利なツールと考えてはどうでしょうか。周りに目を向け、自分の位置を意識し、「やられるものか!」と緊張と警戒とマウントの連続の日々をおくるか、それとも周りに向ける目を自己の内側に向け、観察、注視することで自己の深層に眠っている役に立たない思い込みや勘違いに気づき、自己世界を広げる方向に転換するか、です。

実は観察、注視は以外に「カタルシス」効果がある、ということも経験上お勧めしたい実践の一つです。
「知らない、を知る」ことと「カタルシス」にはこのように密接な関係性があるようです。
ですが、その選択は自由ですから、参考として受け止めてください。

却って、緊張や警戒という刺激が「カタルシス」効果になっている場合も多いようです。
ランナーズハイなどはその典型的なものですし、修行僧の難行、苦行も同じです。プロセス中にも、達成後にも大きな「カタルシス」効果という報酬があるからです。

ただそこまでの道のりは険しいでしょうが、険しいほど報酬も大きいと言えます。
日本人のマジョリティーはどちらかと言うと後者でしょうか。

あなたはどちらを選択していますか?