「食に頼らない生き方」
人ではまだまだ「夢」の段階を超えるものではありませんが、人間の進化としては一番大きな要素になるのではないでしょうか。ところが現在の栄養学的には決して賛成できるものではなく「むやみに減食、不食はしないように」という勧めが妥当な見解という現実です。
そもそも、現代人は食べ過ぎることで招く病気が多すぎるようです。予防医学の面からもこのテーマをもう少し研究していただきたいものです。
もし、日本の食糧消費が半分になったらと考えると、輸入に頼っている日本の状況も一変し、日本の貿易収支は黒字に跳ね上がるでしょう。それ以上に高齢化多死社会においての老人医療支出は激減し、老人は無理矢理生かされることもなく自然なかたちで死を迎えられるシステムに変化するでしょう。 >> 続きを読む
榎孝明さん30日の不食実験に成功‼
不食については以前より大きな関心をもち、野菜ジュースだけで生きている人や、土を食して生きている人などの情報を興味深く観察していました。
現在私も一日一食を実践しています。
古くから修行僧による断食(21日間)や即身仏として知られている『死』への旅立ち法としては行われてきましたがそれらは多くの行の末に修行の延長として行われるものであるという認識でした。
今回の榎孝明さんの実験は、私たちのような修行生活者以外の人間全体の進化への希望を与えてくれる大きなキッカケになったことは間違いありません。 >> 続きを読む
『人を超える存在』への疑問(続)の項で
『快』の感覚に素直に・・・と提案しました。
では『不快』をどう処理するの?という疑問があります。
結論から言うと『快』も『不快』もそれぞれに敏感であるほどより敏感に反応する、ということです。
「耐えることが好き」という人がいます。傷みに堪え苦しみに耐えることで快感を得られる人は『不快』の処理は必要ありません。
一方「傷み苦しみ」に敏感に反応する「神経質」という言葉が当てはまる人では“嫌!”と思うことが起こる前から“起きたら嫌!”というこころの働きでより防御し守ろうという意識が働きます。警戒心が却って必要以上の傷み苦しみを味わってしまうことになる。ということを「神経質」と言って片づけていました。 >> 続きを読む
神が禁じた『快』
Topページ“このサイトについて”の中で触れた疑問について、そこでは『神』が人を不完全にしているのではないかという疑問を提示しました。更にここでは神によって禁じられた『快』についてお話したいと思います。
中尾弘之「快の行動科学」のなかで、“行動の最後の目標”として「快を求め不快を避けることが究極的にすべての行動を決定する価値観になるのであり、人の行動はすべて快を目指す」と言っています。 >> 続きを読む
そんなふうに思うくらい
気づいてみると
驚くほどシンプルなこと
それがNEOマインドです
だって自分自身の意識そのままの顕れが
自分自身が捉えている世界で
自分にまつわる現実なのですから
それが認識できさえすれば
思うままに変えられると納得でき
当然と思えるでしょう
一番難しいのは >> 続きを読む
長期に滞在した人が『ここはオアシスだね!』と言ってくれたとき、私も『そうだ!』と思いました。実際特になにもないのに日常的に「いいな~」と想うことが多いのですから。
起きても『気持ちいい~~』と想いながら目が覚め、散歩してても、外仕事をしていても、家の中で台所に立っているときも、くつろいでいるときも、デスクワークをしているときも、夜も昼もいつも、いつも「いいな~~~」とひとり言がつい出てしまいます。
もちろん、時々無理をしちゃったときなど「いいな~~~」を忘れてしまっているときもあります。せっかくすばらしい環境の中で暮らせる有り難さも、そんなときには忘れてしまっています。
こころが疲れると忘れることがあるようです。何となく疲れたと感じるときは、のんびりゆったりに浸り、時にはウトウトと昼寝をしてしまうこともあります。そのあと「いいな~~~」を思い出し、元に戻って「あ~忘れていたな~」と感じるのです。忘れてしまうと、忘れていることすら思い出せないということに気づくのです。
海外を旅したことがある人は、日本の治安の良さを改めて再認識した経験をお持ちのことと思います。治安が悪いということは、常に警戒心をもたなければなりません。それは緊張、怖れ、心配に脅かされながらリラックスできる時間が少なくなるということです。
私も日本に帰ってそんな不安や緊張が一挙にゆるんで安心をもたらし、ホッとしたことを思い出します。
環境の恩恵、家族の恩恵、親しい人たちの恩恵、社会の恩恵など、私たちは当然あって当たり前のものをもう一度この機会にあらためて認識し直す必要があるのかもしれません。