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(続) 社会変革への大胆な提言 『モモに学ぶ時代の牽引者たち』

NHK BS1スペシャル「コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ」

 BS1スペシャル コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ 山口周 斎藤幸平 磯野真穂

斉藤;
なぜ 私は マルクスのような 思想家を 読んで いるか ?
マルクスは 根本から問う。
ラジカルに問うことをしている、つまり 「豊かさ」とは そもそも何か?を 問わずして この問題は考えられない。

私たちは 資本主義的に「豊かさ」を前提としてしまえば、 当然経済成長してゆくことが 「豊かさ」の前提になるが マルクスにかえると 資本主義の「豊かさ」という前提そのものを問うことになる。

例えば、例えば 子育て において 1人 何千万かかると 数値で言われると すぐにソロバンをはじいて、 1人ならなんとか 育てられるかもしれないけど 2人は厳しいなー とか、 あるいは 今多くの人たちの間では, 一人を育てることさえも 都心部では 厳しいといわれている。子供を持たない選択をするカップルも増え 少子化が問題になっている。

そういう社会が 豊かなのか、 私たちはこの社会に 充分な食料が存在してないからという理由で 子供を持たない選択をしているわけではなく、 食料 電力 など 充分有り余るほどあるにも関わらず、 ただお金がない という理由で それも社会全体にないのではなく 一部に偏ったため、 多くの人たちが 子育てを 諦めざるを得ない。 また 別の自分の夢や希望を 諦める社会、 これはむしろ 貧しい社会なのではないか。

ナレーション
では 子を和む 社会はどうあるべきか?
まずは 人々の 誤解を とく必要があるという。

斎藤;
よく誤解されているのは マルクスも そういった 近代化を 勧め 経済成長をしていこうという 思想だったと言う風に誤解されている。

ナレーション
斉藤はこれまで 埋もれていた 晩年のマルクスの文章から 知られざる 施策の 到達点を 見出した。

斎藤;
マルクスは 初期の若い頃は 資本主義 をもとに 技術も発展して行くし 膨大な富が 生み出される (ことに) 感銘を受けて 確かに一部の資本家たちによって 独占されているから よくないけれども この技術がみんなのものになって 広がって行き もっと経済が成長していけば みんな豊かな生活ができるようになると 楽観的に考えてきたフシがあった。 ところが だんだんマルクスが 年を取っていくにつれて むしろ 資本主義というのが いかに破壊的なシステムなのかということを認識するようになった。 それは単に 格差が広がっていって、労働者が資本の奴隷になっていくだけではなく、自然から奪う力を強めていくことで環境問題が深刻化していくということを、特に晩年のマルクスは認識するようになっていた。

ナレーション
晩年イギリスで暮らしたマルクスは 貧しい人びとの劣悪な労働環境や、自然が破壊されることに 心を痛めていた。 やがてマルクスはその眼差しを 地球そのものへ向けていく。 >> 続きを読む

社会変革への大胆な提言『モモに学ぶ時代の牽引者たち』

NHK BS1スペシャル「コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ」

BS1スペシャル コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ 山口周 斎藤幸平 磯野真穂

 

児童文学者ミヒャエル・エンデの『モモ』は、私たちに「本当のコトとは?」を教えてくれる、大人たちへの覚醒を促す奥深い哲学書ではないかと思っています。

そんな『モモ』を愛読する知識人たちも多く、今回はその一部の3人の方々による、コロナ禍から見える「本当のコト」が語られたNHKの番組からお伝えしたいと思います。

山口 周 (独立研究家)
コロナにより近代が終わろうとしている。誰もが「生きるに値する社会」は、どうすれば実現できるか?

斉藤幸平 (経済思想家)
マルクス研究に新たな光をあて、格差や環境問題を乗り越える道を探り続ける。
「コロナも気候変動も、真犯人は資本主義

磯野真帆 (医療人類学者)
病や死を前にして人はどう生きるべきか問い続ける。命と言うものは簡単に数値化できるものではなく、数値化すればすべてがわかるものではない。

ナレーション
『モモ』の世界に描かれる人々は、現代社会に生きる我々そのもの。他者と触れ合う時間を奪われ生きずらさを募らせていく世界。
コロナ禍によって突きつけられた問、「命か、経済か?」。
そうした問そのものに斉藤幸平は憤りを覚えている。

斉藤:
先進国においては、この数十年間にわたり、新自由主義政策が進められてきていて、例えば医療保険制度に対する予算削減が行われてきた。保健所の数が減らされ、病床数が減らされ、国立感染症研究費や人員も減らされた。
そうした状況にウイルスが入ってきて感染は広まってしまうと、一気に医療崩壊までつながってしまう、というように脆弱が露呈された。
「命か経済か?」というものを個人個人が選ばなければならないような過酷な状況に置かれていると思う。
本来、リスクを個人に押し付ける社会は間違っている。国家が個人に対して現金給付をするなどして、経済のリスクを個人のレベルで減らすことは充分にできることではないか。

ところがこの間の新自由主義の政府はできるだけ人々の生活に立ち入らない、すべてを自己責任という形で個人のリスクマネージメントに任せてしまう。そうしたやり方をず―っと推し進めてきた。いわゆる「自助」です。

この「自助」ばかりが大きくなって、「公助」や「共助」が非常に小さくなっている社会は、端的におかしいのでは?みんなが苦しんでいる状態の中で、一部のすでに充分豊かであった人たちが、ますます富んで行く。これまでも様々な大変な想いで働いていた人たちが今、この状況下でリモートワークもできなくて、リスクの中で働いているにもかかわらず、ますます困窮していく。
こうした二極化と言うのが一つ、資本主義の本質的な傾向だと、私は思っている。
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「カタルシス」の不可欠性

気持ちいいでメンタルデトックス

私たちの日常は常にストレスに晒されています。
それほどストレスと意識しなくても、「仕事」と思うだけで、「楽しみ」ではないことが多く、仕事に向かうときからストレスの蓄積が始まります。

「カタルシス」という言葉を耳にした方も多いと思いますが、聞いたことがないという方のために「カタルシス」について説明を加えます。

ストレスが溜まったという知らせは「疲れた」ですね。そんな時に私たちは無意識に「カタルシス」を行っています。

  • お風呂に入ってゆったりお湯につかって「あ~気持ちいい~」
    「きょうは自分にご褒美」と、思いっきり豪勢なご馳走を食べて「あ~美味しい~幸せ~」
    疲れているのに頭が冴えて眠れないとき、好きなドラマや、映画を観て共感し感動で涙。
    月末にお給料を確認して、自分の働きを自賛する。
    一週間、一か月の終わりに、仕事でできなかった好きな事(運動、ゲーム、旅行など)を思いっきり楽しむ。

などは誰にも心当たりのあることですね。これらはみなカタルシスを行っているのです。

詳細:カタルシス – Wikipedia

「カタルシス」の意味は「浄化」「排泄」
「カタルシス」は元々、古代のギリシャで使用されていた言葉で、直訳すると「浄化」「排泄」という意味です。

 語源はギリシャ語
ギリシャ語では「katharsis」と書きます。その内「kathar」は「穢れや不浄を清める儀礼」を意味しており、「不浄や良くないネガティブなものを清めてスッキリとした精神状態にすること」を表します。ちなみに英語では「catharsis」と書きます

また、古代ギリシャにおける宗教団体のオルペウス教やピタゴラス教団などでは「罪からの魂の浄化」という意味で使用されていたようです。

アリストテレスが「精神の浄化効果」として説明
前述したとおり、語源をたどると最初は宗教などの場面で使われていた、専門的な用語だったのです。では、なぜ「メンタル面での浄化」といった認識で一般の間でも用いられるようになったのでしょうか?

実は、哲学者のアリストテレスが自身の著書「詩学」の中で「人は悲劇を見ている時に生まれる恐れや憐みを感じることで、無意識に心の奥底に抑え込まれていた同様な感情が解放して、心が清められる」と表しました。
その「詩学」がきっかけとなり「メンタル面がスッキリした様子」といった意味で用いられるようになったのです。

また、「カタルシス」は古代ギリシャの医学用語で、薬を飲ませて嘔吐させたり、下痢させて腸内の便の排出を促す治療を指す言葉でもありました。
その他、精神科医のフロイトも心理学の用語として用いて当時行っていた催眠療法と合わせて「悲しく痛ましい話を聞いて涙する療法」によって、精神的に解放される様子を指しています。
これは現代でも心理学やカウンセリングの場面で「カタルシス効果」として使われています。

心理療法として使われる「カタルシス効果」
不安や恐れ、悲しさやつらさなどのネガティブな感情を言葉にしたり話したり、アウトプットしたりして緊張を解きほぐすことを「カタルシス効果」と呼びます。

誰かに少し悩みを話したり、文字にして書き出したりすることで気持ちがスッキリした経験は誰しもあるでしょう。ネガティブな感情には強いパワーがあり、溜め込むと心と体に支障をきたしてしまいます。
普段の生活の中で湧いてくるネガティブな感情や、過去のネガティブな思い出は「忘れよう」「思い出さないようにしよう」と思えば思うほど、脳に焼き付いたまま記憶が定着し、事あるごとに蘇ってきます。抑えるのではなく、逆に言葉でアウトプットすることでメンタルの状態が改善できるのです。

「抑えていたマイナスの感情が解放されて、気持ちがスッキリした様子」を表す「カタルシス効果」映画や本を読んで感動して泣くこともカタルシス効果です。
登場人物の言動や、物語の中のさまざまなシーンによって感情が高ぶると、言葉に出さなくても涙が出てきます。ギリシャの古代医学では、体から血などの体液を体外へ排出することを「カタルシス」と呼んでいました。

実は、感情が高ぶった時の涙には「ストレス物質」が含まれています。つまり、涙を流すことで物理的にもストレスを体の外へ出している、つまり涙はデトックスなのです。
このように、言葉でアウトプットしなくても、1人で映画や本を読み感動して泣くことで「カタルシス効果」を得ています。

「カタルシス」とは人の鬱積した心がきれいになっていく状態を表した言葉です。心のもやもややイライラなど不安要素や苦悩や怒りなどを言葉や文字にして表現すること、共感や感動で涙することで、不快だった気持ちが取り除かれて安心感を得られる効果のことです。

言い換えるとメンタルなデトックスの作用です。

「カタルシス」は人間にとって必要不可欠なものであることはいうまでもありません。身体の排泄が重要なのと同じくらいメンタル的排泄は無くてはならない重要な要素なのです。

ところがこの「カタルシス」、活用の仕方を間違えるととんでもないことになります。
特にメンタル面の抑圧や鬱積を長い間溜め込み過ぎたことが原因でサイコパスや、苛め、パワハラ、そして迷惑なマウンティングへと発展しかねないこともあるのです。

そこまで、重篤なデトックスバイアスでなくとも、知らず知らず小さな迷惑を犯してしまっていることもあります。

先回❝「知らない」を知る❞についてお話ししました。
これまで示した通り、私たちは自己の内側の鬱積や、抑圧などを観察することが少ないことは既に申し上げた通りです。

そうした、自分が気づかない自己の思い込みや、正義を基に生じた理不尽、不条理の記憶は、いつまでも消えないまま、鬱積されているものです。

そういった知らないうちに溜め込んだ鬱積は、どこかで吐き出す必要があります。
他に迷惑が掛からない「カタルシス」は大いに取り入れ、スッキリさせることは肉体にもメンタルにも必要不可欠な事ですが、自分では気づかないうちに「代替カタルシス」をしてしまっていることがあることに気づきました。

丁度タイムリーな夢を見ました。
まるで映画を観ているようでした。
登場人物は小学生の子供と、若くてきれいで優しいお姉さん、それと私でした。

シーン1

  • 子ども:「お姉ちゃんは僕を弱いと思ってるでしょう?」
  • お姉さん:「そんなことないよ、弱いなんて全然思ってないよ」
  • 子ども:「そう?でもお姉ちゃんはいつも僕を優しく守ってくれるでしょ?だから僕のこと弱虫と思ってるんじゃないかと・・・」
  • 御姉さん:「そうじゃなくて、お姉ちゃんはあなたが可愛いから、守ってあげたくて・・・」
  • 子ども:「大丈夫だよ!僕一人で考えてできるもん」

シーン2
子供自身が自分で結論を出す前に、お姉さんが助けようとしたとき、

  • 私:「ちょっといい?」と、シーン1を持ち出して「こんなことがあった事覚えてる?」
  • お姉さん:「覚えてます」
  • 私:「この子が言ってたのは、このことじゃないかと思う」
  • お姉さん:「えっ!?このことって?」
  • 私:「だからこの子は自分で考えて、自分で結論をだしてから、行動したいんじゃないのかしら?」
  • お姉さん:「でも、困ってるように見えて・・・」
  • 子ども:「僕、大丈夫だよ!」

そこで目が覚めました。
子どもが「僕は弱くなんかない」と感じることも解りますし、お姉さんが「そんな風に思っていない」ということも嘘じゃないのです。

お姉さんが「守ってあげたい」と感じることは、無意識に子供よりはるかに優位な位置から見ているので、そのことを本人が気づかない、というよりも当然のことと思い込んで、子供の自主性以前に指導的立場で行動しているだけなのです。

可愛いと思う心が基になって、危なっかしい様子を見ると「私が助けてあげないと」という使命感に背中を押されて、無意識に助けたり、守ったりすることで、自分自身もホッと安心し落ち着けるということです。

よく「あなたのためを思って」という言葉を耳にしますが、それと同じことですね。
教導の必然性が大義名分となって、愛情の押し付け、親切の押し売りになってしまうこともあり得るということですね。どちらも気持ちいい行為ですから。

このようなシーンは日常的よくあることです。
この夢がきっかけで『守る』こともマウンティングの一つなのだと気づきました。

とすると『愛情』の形としては珍しくないなケースなので、多くの人が勘違いしやすいということですね。。
「愛情」という耳障りの言い言葉は、概念の違いで(解釈次第で)知らず知らず誰かを縛ることになっているかもしれないのですね。

そもそもマウントを取りたい人の特徴は、常にヒエラルキーを意識しています。
自分が相手より上か下か?という意識です。
できればいつも優位な位置にいたいというのが当然の在り方で、無意識に優位の位置に収まってしまうことがあるでしょう。それを相手がすんなり認めない態度を取った時に、マウントを取ってしまう。そしてそれが高じると周りは皆「敵」となる可能性もありですね。。

「騙されないぞ!負けないぞ!」と緊張し警戒心でガードしながら、ゴリラのマウントのようにドラミング(胸叩き)したくなる。
そんな状況を想像しただけで疲れますね。

私たちはそういうことを「知らない」うちにやってしまっているということを知るべきですね。
子どもは弱いから保護しなければならない存在という意識が高じて、転ばぬ先の杖になって、転ぶ前に手を出してしまう親は多いものです。

そしてそれこそが親の愛と思い込むと、親は常に杖の存在となり、子供は当然そんな親の杖に依存し、杖がなくては生きられないことになります。
親はそのことで自己満足し(私がいなきゃダメ)と、大人になってからもやめられません。
やがて自分で考えることもできない、自立できない大人が育ち、指示待ち人間と化す可能性は大です。
そして子離れできない親はそんな大人になった子供を年金で養うということになりかねません。40歳を超えた引きこもり大人が増えているのは、そんなところにも原因があるのかもしれません。

このように「愛情」と思い込んでいたことが、実は「カタルシス」のはけ口だった、ということもある、ということを頭の片隅に置いておくことも必要かもしれませんよ。

可愛い(大切)⇒守りたい⇒気持ちいい⇒カタルシス⇒マウンティングになっていた。
こんな繋がりは日頃意識しないものです。

子どもへの愛情、恋人への愛情、夫婦間の愛情に、こうした偏った「カタルシス」との併用を行っているかもしれないことを、今一度立ち止まって考えてみることも、無駄ではないように思います。また使命感に背中を押されるのも気持ちいい「カタルシス」になるために、つい身を任せるということにもなるでしょう。

自分が日頃どのような「カタルシス」を取り入れているかを観察するだけで、気づかなかった「カタルシス」行動に気づき、そのことが却ってデトックスになるということもあります。

人間にとって「カタルシス」は日常的に排便と同じように、自動的に何らかの形で無意識に行為し、スッキリ感でデトックスを味わいながら、メンタルを保っています。

必要不可欠なだけに、ついつい「中毒性」のある「カタルシス」にはまってしまう危険もあることも忘れないことですね。

観察、注視は、私たちの人生を豊かにするための便利なツールと考えてはどうでしょうか。周りに目を向け、自分の位置を意識し、「やられるものか!」と緊張と警戒とマウントの連続の日々をおくるか、それとも周りに向ける目を自己の内側に向け、観察、注視することで自己の深層に眠っている役に立たない思い込みや勘違いに気づき、自己世界を広げる方向に転換するか、です。

実は観察、注視は以外に「カタルシス」効果がある、ということも経験上お勧めしたい実践の一つです。
「知らない、を知る」ことと「カタルシス」にはこのように密接な関係性があるようです。
ですが、その選択は自由ですから、参考として受け止めてください。

却って、緊張や警戒という刺激が「カタルシス」効果になっている場合も多いようです。
ランナーズハイなどはその典型的なものですし、修行僧の難行、苦行も同じです。プロセス中にも、達成後にも大きな「カタルシス」効果という報酬があるからです。

ただそこまでの道のりは険しいでしょうが、険しいほど報酬も大きいと言えます。
日本人のマジョリティーはどちらかと言うと後者でしょうか。

あなたはどちらを選択していますか?

 

「知らない」を知る

私たちは生まれた環境に守られ、教育され、子供時代を過ごし、やがて大人に成長します。その過程で受け継いできた文化や制度を選ぶことができません。それは知らず知らずに脳に深く刻まれ、自己というアイデンティティーを構築する基礎となっています。

その基礎から創られるのが、性格、気質、体型、等々、ほとんど基本的な自己の形成に関与しています。ところが、その基礎がどのような素材か、そしてどのような設計図を基にしているか、ほとんどの場合「当たり前」過ぎて、意識することなく知る由がないまま歳を重ねます。
そして、出来上がった性格、気質があたかもどこかから自然に降ってきて宿ったかの如く、または親からの遺伝に依拠するかの如く処理してしまっているのではないでしょうか。

その割には同じ両親から生まれた兄弟、姉妹がそれぞれ性格を異にするのも否めない事実です。
では、生まれたての赤ちゃんに性格はあるのか?という疑問が生じます。

日本女子大学人間社会学部心理学科教授の塩崎尚美先生によると、生まれたての赤ちゃんは、性格ではなく気質の影響が大きいと言っています。

生まれたときは「性格」ではなく「気質」の影響が大きい

赤ちゃんのころには、まだ「性格」というほど固まったものはありませんが、生まれたときからの「気質」というものはあるといわれています。

気質とは、生まれながらにしてその子に備わっている性質のようなもので、遺伝とはまた別のもの。何によって決まるかということには諸説ありますが、持って生まれた脳の機能が関係しているといわれています。

性格が形成されるときには、その子がどんな「環境」で育っているかの影響が大きく、両親からの「遺伝」はあまり関係ありません。

        引用:赤ちゃんの性格はいつから決まる?親から遺伝する?https://millymilly.jp/column/53961

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ヒエラルキーからフラットへ 世界観シフト

  先回に引き続き、今回はヒエラルキー(ピラミッド型階層構造)からフラット(ネットワーク型全体構造)への移行が徐々に進んでいることを踏まえて、そのビジョンや具体的動向などについて、また個々の変化を可能にする手立てなどをお話してゆきたいと思います。

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグに「この世の謎を解き明かしてくれる知的冒険の書だ。」と言わせた、『サピエンス全史』の著者、ユバル・ノア・ハラリ氏による人類の歴史に関する説では、ホモサピエンスが地球上に生き残り、あらゆる食物連鎖の頂点を獲得し、人類をかくも発展させた理由として、7万年前の「認知革命」の結果であると言っています。

この説はほぼ世界中で定説になりつつあります。

約250万年前に、アウストラロピテクスから進化して、人類の祖先が生まれ、約200万年前にはそこから、現在の人類以外の人類も進化しました。

例えば有名なネアンデルタール人のホモ・ネアンデルターレンシスや、北京原人やジャワ原人のホモ・エレクトス、その他、ホモ・ソロエンシス、ホモ・フローレシエンシス、ホモ・デニソワなど、他にもたくさんの種類の人類が同時に生きていた時代がありました。

現在の人類のホモ・サピエンスが生まれ、生きていたのは15万年前。
その頃には、ネアンデルタール人や、ホモ・ソロエンシス、ホモ・デニソワなども生きていて、ホモ・サピエンスは、アフリカで細々と暮らしていただけだったのが、なぜ現在ではただ1種類生き残り、文明を築き、世界を征服することができたのか?
これが、『サピエンス全史』の問題提起です。

『サピエンス全史』では、7万年前にホモ・サピエンスに起きた「認知革命」だといいます。
さらに『サピエンス全史』では、その後の「農業革命」と「科学革命」が起きたことが大きいとしていますが、それは認知革命があってのことです。
そして、それらの2つは、認知革命の強みをより強化するものとし、『サピエンス全史』では、この認知革命こそがホモ・サピエンスを現在まで、地球全体に繁栄させている要因だと言うのです。

「認知革命」とは一体どのようなものなものか?
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人の幸・不幸を決める価値観

先回の記事を書きながら、自己の進化や成長にとって無意味な怒りや反発の原因に目線が映りました。

先回記事からも見えてきました「価値観」 の強要です。

 あらためて「価値観」とは、を思い起こしてみてください。
日常的にも、将来的にも、自分にとって何を重視し、何を大切にし、何に支えられ、優先しているか?

お金が一番、家族が一番、成績が一番、人付き合いが一番、成功(学歴、肩書き)などのステータスが一番、やっぱり宝石、いや家じゃない?高級車だよ!など自分にとって幸せと感じられる要素、一番価値ある条件が何かという考え方のことですね。国によっては何よりも宗教を優先する場合もあります。

誰かにとって生きる力になっているようなこと、モノが、他の誰かにとってはくだらない安物の花柄便座カバーのようなものかもしれません。そのように、生きる力を与えてくれたり、くだらない安物の便座カバーのように感じたりする原点になっている、いつの間にか刷り込まれた考え方です。

別のところで産まれ、べつの道を歩いて育った他人同士が価値観を共有することは難しいものです。

似たような環境で一緒に暮らしている家族でさえも、違う価値観を持っているものです。価値観はこれまでの経験や環境、性格などさまざまな要因で決まります。
一部分で共有できたとしても、すべてを共有できないのが価値観です。

日本では強要罪という罪がありますが、義務のないことを強要する場合に成立するそうです。
ところが日本においてこの強要罪が成立したということをあまり聞いたことがありません。
もし、このような罪が日常茶飯事に成立していれば、もっとメジャーな言葉として使われていたでしょう。それを可能にしているのが常識という文化的価値観ではないでしょうか。

そして、近年話題が絶えないようになった、パワハラを始めとする多くのハラスメントの実態は、こうした常識・文化がパラダイムシフトしている時代の過渡期にある現象と言えるのではないでしょうか。

(パラダイムシフト(英: paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することをいう。パラダイムチェンジともいう。ja.wikipedia.org/wiki/パラダイムシフト

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鳥の目

炎上ー亀井静香

このところ、元衆議院議員・亀井静香氏による古い家族制度・時代錯誤の国家観・セクハラ・パワハラともいえる暴言・恫喝が炎上しているようです。

画像引用元https://matomebu.com/news/etv-kameishizuka/

「そこまで言うんなら結婚しなきゃいい、みんな天皇の子」
「こういうのを得手勝手って言うんだよ」
「簡単に言うと国家の都合よ」
「日本はな天皇の国だよ、簡単に言うと」「みんな天皇の子だから一緒なんだよ」
亀井氏が右翼的思想の持ち主であることは分かっていたが、ここまで露骨な発言をするとは思わなかった。この発言は、首相時代の森喜朗氏が「日本は天皇を中心とする神の国」と発言したのと同等ではないか。
https://matomebu.com/news/etv-kameishizuka/


<勝手なことをやってる人に、国家が全部合わせてたらよ、どうするんだよ。やりようがないよ。ひとりのわがままに合わせてたらさ、国家というのは困っちゃうんじゃないかなあ>

<国家からの恩恵を受けたいと思うのであれば、国家のルールに対してある程度妥協せんと生きていけねえだろって俺は言ってるんだよ。常識的なことを言ってるんだよ。国家の保護を求めながらね、いっさいね、国家の行為に対して協力をしないというのは得手勝手って言うんだよ!よく考えてみなさいよ。あなた方のためにね、他の国民がおるわけじゃないんだよ>

亀井氏<あなた(=夫)は本当はな、いいか、心から愛されてないんだよ、間違いない>
夫<それはないと思います>
亀井氏<ないってそれは自分で勘違いしてる>

https://wezz-y.com/?s=%E4%BA%80%E4%BA%95%E9%9D%99%E9%A6%99&x=16&y=17

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