思想軸の曖昧な日本人にイデオロギーの露見現象1

安部元首相国葬がトリガーか?

国会審議のないまま、安倍元首相の国葬を閣議決定した岸田首相。さらには国民が納得できるような説明もなく60%を超える反対派の中で、予定通り強行されたことで、国を分断する結果となりました。
思想軸が曖昧になって多様性へと舵を切ってきた現代において、イデオロギー分断の現象は、まぎれもなく安倍元首相の旧統一教会との関係性が動因であり、人々をデモという行為にまで搔き立てたトリガーは国葬強行によるものであることは間違いないのではないでしょうか。

私たちは皆、個々それぞれ、イデオロギー装置によって行動が発生しています。
つまり、すべての人が、何らかの洗脳の上に、人生が構築されているといってもよいのではと思っています。

日本において、個々人の潜在的イデオロギー装置は思想家を除いては、個々の人間関係の深さによって、イデオロギーが見えたり隠れたりし、イデオロギーによって組織される政治家においてさえも、見せたり隠したりと、時には自己の本音と組織の建前を使い分けたりと曖昧さを含み、積極的に公開したり、他者によってそれを掘り起こす作業は、日本文化の慣例において一般社会ではどちらかというとタブー視されているように感じています。

早く言うと思想信条の中核を持たない、あるいは中核が明確であったとしても、ぼかした表現をことさら意識することに努力を払うという、海外の国々の人からは理解できないような態度を呈してきたと言えます。

それは「アンチ派」との対立を避けることは勿論ですが、総体的には、「空気を読む文化」、極端に言うと、専制国あるいは社会主義国に似た、「世間の意向に沿う」という、全体主義とも言いえる、社会(の潮流)忖度による行動スイッチが自動的に入り、自己の主張は控えめにしようとする、(これもイデオロギー装置の一つですが、)それが強く働くからと言えます。

宗教においては猶更そういった一面が重視されてきました。
思想信条(信仰・イデオロギー)とはプライベートの極みであって、そこまで侵入できる人間関係は、極々近しい、共に共感し高めあえる仲間に限る、というのがこの日本社会の文化的習慣、あるいはそれ自然な状態と私は認識しています。みなさんはいかがでしょうか。

そのような習慣の影響が、日本人思想家の少ない理由なのかもしれません。
「みんな一緒、足並みをそろえる、一丸となる」といった昭和世代の残骸をどこかで引きずっていて、国民全体に浸透した集団主義・全体主義的ともいえる日本文化「主張すると嫌われ排除される」ことを恐れる風習。それがこのような文化的特徴を定着せることになったものと思われます。

学校教育から、一つの「正解」を教えられ、その正解さえ記憶すればいいという教育スタイルが、「考えること」を不要にし、みんなの動く通りに動き、みんなの進む方向へ一緒に進むことが「正解」という考えが習慣づけられました。

動いているうちはどこに向かっているか、という目的も知れず、知ろうともせず、ついた所で「ここどこ?」とまわりの皆に聞いても、「さ~?」といった具合なのです。

いつも「答えは一つ」ですから、それ以外の可能性は考える必要がないというわけです。

このように「思考停止」方向へと仕立てられてしまったのが日本人です。

そのことが、パラサイト体質をつくり、主張しないことを是とする「奥ゆかしい」「慎ましい」を美化する社会として機能してきました。

マスコミもそれに倣って、刺激的ではない言説を重視し、コメンテーターの面々を選択してきたようです。

ところが、今回の衝撃的な安部元首相事件によって、最近では公人、私人の区別なく、個々の「イデオロギー」がはっきりと浮き彫りにされている様子が否応なく顕れているのがわかります。日本においてはこれほど明確にイデオロギー表現がなされることは昨今の多様性時代においては珍しい現象ではないかと思うのです。

「ミヤネ屋」を皮切りにTVは一挙に、刺激的発言を少しずつ取り込むようになり、TVのワイドショーは大荒れになっています。「統一教会系組織への介入如何を問う」「安倍晋三国葬への賛否をう」、スポーツ界では東京五輪を巡って贈収賄疑惑。渦中の菅義偉前首相も関連していると言われた・森喜朗トンネル財団「嘉納治五郎財団」はこっそり活動終了していた(閉鎖)?など黒い噂が蔓延。
暗躍する政財界の関係者は次々とその実態を露わにしています。

インターネットのおかげで、私たちはこれまで知り得なかった情報に、いち早く触れることができるようになり、灰色のまま幕引きしようとしている権力者たちを引きずり下ろそうとする動きもつぶさに読み取ることができるようになったのです。そして一方では、そんな森喜朗の銅像建立を唱える人たちの動きも同様に瞬時に伝わってきます。

「考える人」と「周りに従う人」がこうして対立するようになってきました。

何も考えない国民は広告の言葉や流行りをそのまま鵜のみにして消費を続けた。「●●した方が良い」などの言葉をよく耳にするように結果ばかりをショートカットしようとする思考からこのようになりました。
中略
私たちは義務教育でも、高校大学でも答えのある「How to」ばかりを教わります。
Whyばかりされると国の意図しない考えになってしまう。

そこで答えのあるものを探す思考が義務教育を通して国民に植え付けられ、国が活性化するように仕組まれたのが我々の教育制度です。

「日本人は自分のアタマで考えない」”正解を求める教育”が生んだ今の日本とは… | TMT (thoughts-mt.com)

アルチュセールは社会を三階建ての家のように表します。

一階は下部構造(infrastructure)であり、経済的な土台です。それがないと、上の階はありえません。二階と三階は上部構造(superstructure)をなり立ちます。二階は国家のイデオロギー装置です。
三階は国家の抑圧装置です。

先に述べたように、一階は不可欠です。しかし、一階での再生産は国家に支配されなければなりません。
三階には軍事力や警察力がありますが、それは最終手段です。
暴力での支配はあまりにも危険ですから、国家は直接に再生産を行いません。

マジョリティー=世間の常識=正解。
マイノリティー=世間の常識に外れている=不正解
というロジックが定着しています。

それは、正しい道、間違った道をとことん教え込まれた結果です。こうして私たちは、正しい道を歩むべき、間違った道には決して入らないようにと、いつも周囲の動きに敏感になり、周りが動く方向へ、周りが進む道を、前の人の後に続くという癖が染みついたのではないでしょうか。
これこそソーシャルイデオロギー装置による洗脳といえないでしょうか。

このように考えてみると、私たちは国のイデオロギー装置によってコントロールされ、その結果が『文化』という形で定着していたと思われてきました。

ちょっとした精神分析の話になりますが、イデオロギー装置は色んな理想のイメージで提供します。私たち主体はそのイメージを叶えたくなります。
「正しい道を行きたい」と思うことは、「正しく生きるべし」の教えが浸透した結果です。
こうして私たちは正しい道を探し、その道を歩むことを叶えたいと願うのです。

イデオロギー装置はいろいろとあります
学校・(マス)メディア・宗教団体(オンラインサロン)・エンタメ・家庭・政治など。
イデオロギーとは個人の現実と想像との関係を表しているものです。

アイデンティティー 行動・心理
真面目 命令されたことに従う
ちゃんとした仕事 社畜
育ちがいい人 秩序を乱す可能性のない人
頑張っている 自分の時間やエネルギーが残っていない
余暇(アルコール・テレビ・ゲーム) 明日の労働のために必要な回復時間
給料 働くことで生じた自己価値の一部
CM 望むべきものを示してくれるもの
恋愛映画 理想または共感できる恋愛の教材

一番影響の強い国家のイデオロギー装置は学校です

参考: みんなに関係ある「国家のイデオロギー装置」(ルイ・アルチュセール)|かわった教師@ネイティブ英語🇺🇲|note

このように私たちは皆、所属する社会のイデオロギー洗礼を受け、洗脳された存在として意識的、無意識的に行動しているのですが、実は集合的イデオロギー装置によって洗脳された場合、選択的・能動的イデオロギーの構築は困難となることを忘れているようです。

宗教的であれ、非宗教的であれ集合的イデオロギー装置に毒されると、有益な解毒剤に出会うのは大変難しく、解毒剤を手に入れた人は少数の幸運な人といえるでしょう。

そこで、最近マスコミをにぎわしている爆笑問題・太田光発言について少し触れたいと思います.

続く

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