行動こそがすべてを語っている

『虚構』に操られる実態

 

虚構が行動に影響するプロセスは、図のようになります。

私たちは、自己の意識によって行動を選択しているかのように錯覚していますが、実はこうして『虚構』に操られた行動をしていることが解ります。

「こうしたい」と思っても、つい他のことを優先してしまったり、不快を感じながらも、つい我慢をしてやり過ごしたり、予定を立てたのに、他者の誘いを受けるとつい断れず、そっちを優先して計画変更したり、ということは誰にも経験しているのではないでしょうか。
つまり、「優先するモノ、コト」が、脳にプログラムされているために、そのような行動を選択するということがお解りいただけると思います。

受動的虚構においては、自分よりも社会のルールを優先すべきという意識が勝ってこのような行動結果を産むということです。
自分を優先させることは『我儘』と言う烙印が押され、社会との不協和を意味するため,自分の「快」はいつも後回しにされるようインプットされているのですね。
つまり、能動的虚構ではなく受動的虚構ががっちり構築されている結果の行動と言えます。

このような観方をすると読者の方からは「みんなが好き勝手してしまったら纏まらなくて困るだろう」という声が聞こえそうです。

そういった観点が基になって、理想的な人間の在り方をルールに取り込んで管理しやすいようなシステムが拡散されたのかもしれません。大元は宗教思想が背景にあったと言えるでしょう。

私たちは、「どのような幸せを享受したいのか?」よりも「どのような社会人になるべきか?」を注視し考え、取り込んできました。
その前提での脳内プログラム作りを教育されてきたと言えるでしょう。
形の上だけの理想とされる人間作りを目指してのことでしょうが、宗教理解の軽薄が原因ではないかと感じています。
そこに生じたのが「歪み、軋み」です。

またそれを増幅するように「幸せもお金次第」という常識が構築されています。
このように、幸せを遠ざけて、苦労を自ら引き寄せるような虚構が数限りなくプログラムされている脳内では、追い詰められて打つ手がない状況に陥る可能性は大きく、誰もがその危険性を孕んでいると言って過言ではないような気がします。

このところ痛ましい事件の報道が多く、つい最近では中学生が校内で同級生を刺し殺すという、悲しい報道。そして同時期に同居の叔父による放火で二人の小学生の兄弟を死亡させました。

逮捕の中3男子生徒「いやな思いをした」警察“トラブル見当たらず” スマホ押収し動機調べる 中3刺殺(CBCテレビ) – Yahoo!ニュース

「中学2年生のときには同じクラス。同じ小学校。仲がいいか悪いかは現時点では把握していません。(いじめやトラブルは)思い当たるところはありません」(校長)

学校が個人個人の心の歪みや軋みを把握できようはずはありません。
その上日本の風土では❝足並みを揃える❞という風潮があり、生徒を十把一絡げに見てその中から飛び出た子に注意を払うくらいでしょう。加害者の少年は「生徒会選挙の応援演説をやらされたのが嫌だった」という趣旨の供述をしていることが新たにわかりました。
「そんなことくらいで?」と大多数は反応するでしょう。しかしそれまでの布石や、少年の「嫌」の程度も私たちは計り知ることはできません。ただ、少年の心に大きな歪み、軋みがあっただろうことは窺い知ることができます。

兵庫県稲美町で起きた放火殺人事件も、私たちが推測することができないような、心の歪み・軋みからか、いたいけない子供を殺す羽目になりました。

もしかしたら、妹夫婦への欲深い心や嫉妬心、あるいは憎しみが潜在し、積み重なっていたのかもしれません。怨念は人間を鬼にも邪にもしてしまいます。

可愛い子供がそんな大人の犠牲になる前に、何とかできなかったかと悔やみきれません。

世間ではこうした「歪み、軋み」が原因で自殺、犯罪に走る人が後を絶ちません。
ところがその世間の常識は、「生きること=苦と戦うこと」の方程式で動いています。
自殺や犯罪に走る人たちは「心が弱い人」あるいは「心が歪んだ人」と結論付けられます。

心が折れたり、歪んだりする原因に目を向けることなく、現象だけを見て、批判し、誹謗中傷し、自分と比較して安心している。そういう人たちの多くが、度重なる心の不安や、怒りと戦ってきた人たちでしょう。そして彼らはそんな軋みの解消にSNS上で、誰かを叩きのめす言葉を発して鬱積した感情を爆発させているような気がしています。

このような方法では、いつまでたっても根本原因の解決にはなりません。
そして、このような生き方しかできない現実を創りだしたのも人間自身です。

そこで、私たちは根本的な原因である、個々の歪み軋み に目を向けるべきではないかと考えるようになったという訳です。

その軋み・軋みが日常の行動に現れているということに、今一度思いを馳せてみては如何でしょう。

親は子供の日常の行動を、親の眼鏡をはずして観ることが大切です。そこから自分の歪み、軋み、そして受動的虚構までも見えてくるでしょう。

私たちの中から、歪み、軋みといった不調和音が外れたら、それだけで幸せな感覚を享受できることでしょう。
幸せとは、モノ、金、で形成されるものではないこともはっきりと自覚できることでしょう。

そんな幸せ感覚に浸ることができれば、自らのオーラ―が変化し、好運を引き寄せるはずです。
そうなった時初めて、自利の行為よりも利他の行為を自然に行うようになるでしょう。
それが自然の摂理なのですから。

無理矢理自己犠牲を強いたりしなくても、親は子どものために犠牲を払うことを悦びとし、愛する人の幸せを願うことが自己の最大の幸せに繋がるのです。

『幸せは始めに軋み解消ありき』と声を大にして言いたいです。

この歪み・軋みは、自分では簡単に自覚できないこともあります。
自分を追い込むタチの人は特に苦痛に鈍感になるように鍛えられているのでそれが邪魔します。刺激が強いほど気持ちいいというような、ストイックでスパルタ好きの人は要注意です。

そういう方たちは、自分自身は強者の範囲なので、自分を変えようとは思わないでしょうし、またその必要もありません。がしかし自分の子供や、教え子、後輩に対してはより心を配る必要があると思うのです。つい強者を育てようとしてしまいがちだからです。

それ以外の強者の枠に入らない人は、自己の痛みや苦痛、嫌感、怒り、怖れ、不安が歪み・軋みの原因から発する不調和音と捉えて、その原因を自己観察すると良いと思います。

例えば子供の頃から母親に「他人の言うことを素直に聞きなさい」と言われ続けて育ったために、誰のいうことも聞き入れ、一体誰の言葉を信じるべきか、何が真実なのか、どう生きればいいのかわからなくなった。そのために人と接することが怖くなり孤立してしまっている。

「何も考えないで生きなさい」と言われているようで、自分がなくなり、未来を考えられなくなってしまい、孤立した環境で、刹那刹那に生きる、という引きこもり状況などよく聞きます。

刹那刹那でも、それなりに本人が幸せならいいのですが周囲の批判的言動によって、自己嫌悪に陥っている人たちも多いでしょう。

その人の脳内プログラムは「他人に逆らうな!」「他人の言いなりに行動せよ!」です。ところがそれに従っても、すべてが上手くいくはずありません。価値観は千差万別なので、こっちの人のいうことをきいたら、あっちの人に叱られ、ということは必ず派生するでしょう。そもそもお母さんの教えは、自分にはフィットしなかったと気づくべきなのです。

そこから、では自分はどうありたいのかを、ちゃんと自分で考えられるようになるでしょう。考えるという習慣がつけば、周りを眺めるようになります。それがきっかけとなって好奇心が湧くかもしれません。そうなったらもうこっちのモノ、そこから自己世界が構築されて行き、生きることが楽しく、面白くなるでしょう。

要は周りに興味が沸かなければ自利も利他も実現できないということです。
周りに興味が沸けば、そこから自分にとって必要な情報をゲットする行動に出るでしょう。いきなり結果だけを要求しても、誰の心も動かせないでしょう。

全ての人に言えるのは、行動こそがすべてを語っているのです。

 

 

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