(続)物語を創りながらその中で生きている私たち

 

「能動的虚構」構築の勧め

 先回、「この世は「虚構」で出来上がっている」について、仏教的見解と歴史学者ハラリ氏の見解から紐解いてみました。

一朝一夕には、それを鵜呑みにできない方々が大半なのではないかと察します。
だからこそ、何万年も前から仏教上で説かれた根本教理(縁起)が、現代になってもなお「由来」や「ジンクス」としての意味にしか使われていないのだと思います。

もちろん、物語や噂話が人類を団結させ、集団の力のお蔭でサピエンスは生き延びたことも事実です。同時に人間に必要以上に恐怖心を植え付けるような無用な物語、噂話も無数に作られたことも事実です。

それらを分別する能力を持たなかった時代には、それらすべてを信じ、怖れを抱き、そこから逃れよう、救われようと「神」という人を超える存在を生み出したことも否めません。それは「不安」を脱する手段となり、人間の寿命を延ばすことにも効果的だったかもしれません。

 2021/10/10の記事NEUノイsolution (続) 社会変革への大胆な提言 『モモに学ぶ時代の牽引者たち』 (matrix.jp) にマッチポンプについて触れましたが、ここでもまるで、同じことをしているように思います。

不安を煽って、救いの手を向け利益を得る、というこのような手法は詐欺の手口としてよく耳にします。ところが、現実においてもこのような手段を用いた商法は公然と行われ、誰も非難する者はいません。時々はブラック企業として名前を上げられる企業がありますがそれは、初めから詐欺を目的とした企業です。

そうではなく、確信犯的に公然と、政治の世界や社会的重大企業で行われているということを申し上げたいのです。上記の「神」という存在を創り出したルーツと同じです。

「不安」を解消するための商品は山ほどあります。私たちは「認知革命」という虚構を創り出す能力のお蔭で、「不安」を煽られることに極端に弱い性質を備えてしまったとも言えるような気がします。「保険」や「貯蓄」という概念はその代表的なものではないでしょうか?

これらは商用に誰かのアイデア(虚構)によって作られたものです。また文化、慣習、普通の概念、世間、諺、噂、ヒエラルキー・・・・・・・・・・・・・・・・・・も同じ人工の虚構です。

そして私たちの脳内プログラムの素材はほとんどこれらの「受動的虚構」から採用し、関係性を築き上げたといって言い過ぎではないでしょう。

誰かが創り上げた虚構は便利なものですから、大衆は大いに利用し、何の疑問もなく自分のオリジナルのように使いこなし生活を豊かにした功績もあります。しかしながら、こうした受動的虚構とは、時に「ひずみ」や「軋み」など、能動的オリジナルな虚構と反して、自己の資質の体感と反りが合わなくなる可能性が大きいのです。

しっくりこない部分には蓋をしながら、自分の中に生じる矛盾と戦うという、余計なエネルギーを費やすことになり、更にその「ひずみ」が大きいと、自己を攻撃するようなことになる場合が往々にして起こることがあるのです。

私たちは、こうした自己を構成しているプログラムに目を向けたことはないと言えるでしょう。
ですから能動的とか受動的とか言われても、考えたこともないことに想いを馳せることすらできないという声が聞こえてきそうです。それこそが「虚構」が産み出す結果なのです。

脳内の「標準」には、まず自己の定義は「関係性で成り立っている実体のない存在」などではなく、「現実的で物理的」な個々それぞれが分離された決して繋がってなどいない自律自存の存在とプログラムされています。

対立や競争もそのような基準から自動的に産出されたものです。そこから多くが生き残るためには協力体制が必要となり、そのための「物語」を創り始め現在に至ったといえます。

そして私たちは第二次認知革命の時代に突入したのかもしれません。

過去、そうやって創ってきた自己プログラムの実態が、コンピューターの発達や、量子物理学の登場などという科学技術の発展がきっかけとなって、ミクロ世界の摩訶不思議な現象やAI的ニューラルネットワークの仕組みと、脳内の仕組みとが酷似していることに気づき始めました。

それは徐々に角度を変えて自己を客観視する視点となっているのではないでしょうか。。

ちなみにコンピューターの初期値プログラムのOSとは

OSの定義
OS(オペレーティングシステム)とは、コンピュータ全体を制御してユーザーが使いやすくするためのシステムです。もう少し具体的にいえば、OSは「ソフトウェアとハードウェアを仲介する」という重要な役割を担っています。 たとえばパソコンでドキュメントを作成する場合、メモ帳などの「ソフト …

OSはアプリ開発になくてはならないもの
OSは、普段私たちが「当たり前だと思う機能」を提供してくれています。たとえば、キーボードから文字を入力すると、入力した文字が画面に表示される。マウス・タッチパッドなどを操作すると、操作した位置がわかる。イヤフォンを指すと、イヤフォンから音が聞こえる・・・・・

 しかし、これらの基本的な機能はパソコンの機能ではなく、OSによって実現されている機能なのです。ちなみに、OSによって実現されている機能は、アプリケーション開発者があらためて作成する必要がありません。

OSとは何か?初心者向けに基本的な知識や種類をわかりやすく解説 | 侍エンジニアブログ (sejuku.net)

コンピューターにおける「OS」と同様に、人も生まれた瞬間から、外界の刺激にどう対応するか?というプログラムが積み上げられ構成されます。ある程度常習的な同様の刺激がまとまるとそれが固定化し初期設定が構築されます。

そうでなければ、脳は常に度々起こる常習的事柄についても、そのつど1から判断を積み上げて最終判断を下すことになり、時間がかかりすぎて瞬時の行動はできないことになります。それを避ける事こそ生命維持に不可欠なことですから、自動的にネットワーク形成がされているということです。

そうやって情報収集と固定化を繰り返す中で、文化や慣習、空気を読むことや忖度する、我慢することまでプログラム化されてしまうことになったということですね。

そんな固定化プログラムの中に、人生の標準値とは、宗教の影響によって、苦と楽は拮抗するか、あるいは楽を得るための苦の努力の方が上回ることが標準値として固定プログラム化されていたのではないでしょうか。

そのことも実は「虚構」であると判明し、それに気づいた人たちは、もっと豊かな人生のためのプログラムに書き換えようと動き始めていると感じています。

昭和という「演歌全盛時代」では、伝統、慣習、世間に含有する不条理、理不尽などの不自由さに埋もれて、苦しみに耐え忍ぶ自他を憐れみ、かばい合い、慰め、励まし合うなど、傷をなめ合う関係性という、どちらかと言うと負の虚構に包まれた時代だったのではないでしょうか。
当然のように依存要素としての先祖崇拝、神仏や崇高な存在への敬虔な祈りが尊ばれる時代を経て、昭和中期から始まったのがスピリッチャル時代です。

ちょっとだけ前向きにちょっとだけモダンに、ちょっとだけ先進的(科学を匂わせる)な新しい感覚の「スピリッチュアル」の流行は、神、聖霊、魂、超自然という虚構に包まれた昭和後期から平成時代が全盛でした。

まだまだ超人的な存在を必要とし、新しい虚構の存在によって、熱狂的若者たちを産み出しました。オーム真理教の事件はそんな中で起きた歴史的事件でした。

高学歴の知的な若者たちが教祖麻原彰晃に洗脳され、餌食となって殺人事件にまで発展させてしまったという、痛ましい事件は今でも忘れられません。この宗教組織の中でも「忖度」が「理不尽」に負けてしまっていました。

虚構はこうして人間を簡単に支配する凶器とも化すことを、私たちに突きつけられました。そのことを肝に銘じ、忘れてはならないと実感したことを思い出します。

このように、「虚構」というテーマは多くの功罪を包有する、重要なテーマであることを。再三ですがお伝えしなければならないのです。

先回で『「千の風になって」という歌の歌詞をとりあげましたが、これも新しい「虚構」に多くの人たちが共鳴した一例ですね。この新しい虚構は、墓仕舞い、葬送の簡素化につながった原因の一つなっています。

「虚構」の書き換えが始まったと言えますね。

「負けないこと」「挫けないこと」をモットーに頑張ってきた昭和世代の大人たちを見て、次の世代では、「それほど頑張らないで生きたい」という意識の目覚めもあったでしょう。

スピリッチュアルの原点にもそんな意識が見え隠れしているようですが、はっきりとした答えには至らなかったのでしょう。

そんな過程を経て、「幸せ」の中身がモノではないことが見えてきましたね。「修行」への称賛意識が、「面白がって楽しむ」へシフトしていることは確かですね。

このようなAIの影響下での動きは、人類がこれまで以上に、この世を満喫してあの世へ旅立つことを望み始めたということを意味しているように思われてなりません。

物質的満足から精神的満足への転換と捉える方たちも多いようです。。

これら社会性プログラムだけでなく、自己のプログラムにも意識を向けることで、その後の人生物語を如何様にも書き換えが可能であることを、何となくでも感じていたけたことと思います。
また量子物理学の応用が進むにつれ、これまで神がかっていた現象が科学で説明できるようになったことも大きな進歩です。
ミクロの世界を操作する「意識」の実態や、現実化の過程などを、多くの人たちが知ることになったのです。こうして私たちは新しいソリューションへと足を踏み入れています。

その上で、受動的虚構プログラムへのアプローチは?ということになります。
それは全く難しいものではなく、個々それぞれの「快・不快」を辿れば必然的見えてきます。

つまり受動的なものは、いつの間にか自己承諾なく知らず知らずのうちにプログラム化されてしまっていることはこれまでにお話してきました。

受動的虚構の中の、「ひずみ」や「軋み」は不快感という現象で顕れてきます。

そうした「不快感」の処理は、これまでのやり方は、逃げたり、蓋をしたりして、なかったことにしようとか、又はそれと戦う強い精神を鍛える、という方法でしか解決できていませんでした。

そのために必要なのがスポ根、荒行、あつい信仰心ということになります。

とにかくどこまでもストイックさを要求されてきたために、痛みや苦しみに耐える、我慢する、という習慣がこびりついています。そうなると「ひずみ」も「軋み」も見逃されてしまいます。

つまり、不快を不快と感じ取る感性が損なわれていることの方が、問題と言えます。

ちょっとした疲れは「これぐらい当たり前」とか、パワハラにも長い流れの、一現象だからと目をつぶって抗うことなく流れに任せようなど、悪しき習慣が身についてしまって、苦痛、不快に鈍感になってしまっているのではないでしょうか。

また少々の身体の不調に対しても、そんな習慣が基になって癌が進行したなどは日常的に誰もが耳のする経験可能ことで、それがゆえに検診によって発見を速めようというシステムができました。

恥ずかしながら「我慢大敵」をモットーとしていた私でさえも、後者の類を体験し、つくづく不快、不調の見逃しやすさ実感した一人なのです。

幸い命拾いし、現在は元気を取り戻していますが、我慢強さを叩きこまれた世代は皆同じような体験をする可能性は大きいでしょう。

そこで、不快が募ると不機嫌になるという現象を捉えてはどうかと思いました。

怒りっぽくなったり、イライラしたり、会話中に眠くなったり、運転中にぼーっとしたりと、好ましくない現象が起こった時を見逃さない、ということですね。

特にイライラや怒りは「軋み」の最たるものだと思っています。

若い頃はイライラや怒りが日常茶飯事の私でしたが、今ではいつ怒ったか、思い出すこともできないくらいにイライラ、怒りから解放されています。

そればかりか、口癖だった「何か面白いことないかなー」という独り言も、今では「あ~いいな~、楽しいな~」や「面白いな~」「気持ちいいな~」「幸せだな~」という独り言に変わっています。

私の「楽しい」「面白い」「気持ちいい」は私が感じるもので、もしかしたら一部の人と共有できるかもしれなくても、誰とでも共有できるものではないことがはっきりしています。

なので、私の状況に批判的な人がいたとしても、それは彼らの印象・価値観から生ずる感覚になので決して外野側に影響されることなく堂々と誇り高く人生を楽しめています。

それを可能にしたのは思い込みとしてプログラムされていた事項の発見と書き換えでした。

それができるのは個々それぞれ自分自身だけではないかと思っています。

誰かに指導されたり教育されたりというのはあくまでも、他者の「虚構」のコピーにすぎずオリジナルな「能動的虚構」とは言えないのですから。

誰にも頼らず自分の全身を使って自己の内側を注視することこそ、人生を豊かにできる必須条件ではないかと思っています。そしてそれは、次世代に求められていることのように思います。その兆しはそこここに現れているように感じています。

誰かに頼れば、その人の持っているものが否応なく入ってきます。自己の未来は自分で決めなければ、これまでと同じ失敗を繰り返すだけです。

こんな言葉を聞いたことがあると思います。
「誰かの物差しで自分の幸せを測るな!」
自分の幸せを自分の物差しで測れば、幸せの青い鳥は以外と早くおとずれるはず・・・・と。

自分の物差しは自分の中の快・不快を感じ取る、生まれたときから備わった野生の感覚です。その感覚をねじ伏せて、社会性だの、文化的だのと複雑な人工的虚構があなたの人生を豊かにすることを阻んで邪魔しているかもしれないということに今一度想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

「能動的虚構」の意味と重要性が、ほんの少しでも共有できましたら嬉しいです。

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