「知らない」を知る

私たちは生まれた環境に守られ、教育され、子供時代を過ごし、やがて大人に成長します。その過程で受け継いできた文化や制度を選ぶことができません。それは知らず知らずに脳に深く刻まれ、自己というアイデンティティーを構築する基礎となっています。

その基礎から創られるのが、性格、気質、体型、等々、ほとんど基本的な自己の形成に関与しています。ところが、その基礎がどのような素材か、そしてどのような設計図を基にしているか、ほとんどの場合「当たり前」過ぎて、意識することなく知る由がないまま歳を重ねます。
そして、出来上がった性格、気質があたかもどこかから自然に降ってきて宿ったかの如く、または親からの遺伝に依拠するかの如く処理してしまっているのではないでしょうか。

その割には同じ両親から生まれた兄弟、姉妹がそれぞれ性格を異にするのも否めない事実です。
では、生まれたての赤ちゃんに性格はあるのか?という疑問が生じます。

日本女子大学人間社会学部心理学科教授の塩崎尚美先生によると、生まれたての赤ちゃんは、性格ではなく気質の影響が大きいと言っています。

生まれたときは「性格」ではなく「気質」の影響が大きい

赤ちゃんのころには、まだ「性格」というほど固まったものはありませんが、生まれたときからの「気質」というものはあるといわれています。

気質とは、生まれながらにしてその子に備わっている性質のようなもので、遺伝とはまた別のもの。何によって決まるかということには諸説ありますが、持って生まれた脳の機能が関係しているといわれています。

性格が形成されるときには、その子がどんな「環境」で育っているかの影響が大きく、両親からの「遺伝」はあまり関係ありません。

        引用:赤ちゃんの性格はいつから決まる?親から遺伝する?https://millymilly.jp/column/53961

気質には3タイプあり、easy(育てやすい)・difficult(気難しい)・slow starter(ゆっくりマイペース)に分かれるそうです。(中略)

3歳ぐらいには性格の原型ができてくる。                                   

性格というものは、生まれつき備わっている気質に、育っていく環境や周囲からの関わりなど、さまざまな要因が加わって、作られていきます。

生まれたときは、その子のなかで気質の影響のほうが大きいですが、1歳、2歳と成長するにつれ、気質の影響より、環境や関わりなどによる影響のほうが強くなっていきます。そして、3歳ぐらいには、いわゆる「性格」の原型のようなものができてくると考えられています。ただ、その後もまだ、成長しながら変わっていきます。

https://millymilly.jp/column/53961

性格は親から遺伝する?

性格は「遺伝」ではなく「環境」によって決まる
性格が形成されるときには、その子がどんな「環境」で育っているかの影響が大きく、両親からの「遺伝」はあまり関係ありません。
ただし、子どもが育っていくなかで、いちばん関わりが多いのは親であり、親の性格や行動の特徴も「環境」に含まれます。そのため、親の性格や行動の特徴的な部分が、環境として子どもに受け継がれることは多く、それを「遺伝」と勘違いしてしまうことは多いと考えられます。

例えば、親が感情的になりやすく、大きな声で怒鳴ることが多いと、子どもはそういう行動の特徴を学習して身に着けていくため、何かあるとすぐ感情的になって大きな声を出したりするようになることがあります。
一方、親がとてものんびりしていると、子どもものんびりした生活をするため、自然におっとりした性格になっていく、ということもあるでしょう。

https://millymilly.jp/column/53961

また、呼び名には性格を方向づける力があるといわれます
名前の持つ語感が脳に影響を与え、潜在意識に刷り込まれるといわれているのです。詳細;https://millymilly.jp/column/38695
名前の語感が子どもの性格を決める!? 音のイメージが持つ力とは|Milly ミリー

このように私たちは生まれてからの環境に浸りながら、あらゆる事象を潜在意識に刷り込むことで、「自己」が確立し大人になります。
そういった過程によって出来上がった「私」の性格、アイデンティティーを深く考えることなく、私たちは「私」の人生を何となく歩いているのではないでしょうか。

言い換えると、「私」自身すらよく「知らないまま」苦悩や辛酸と戦っているといって過言ではないと言えるのではないでしょうか。

その上、生まれた環境から強制されたルールや制限が、あたかも普遍的な人間の生きる道であるかのように錯覚しているかもしれないこともあるのです。

現在、アフガニスタンがタリバン(アフガニスタンのイスラム原理主義組織)によって制圧されていますが、タリバンの常識と市民の常識に大きなズレがあり、国を脱出する人たちは空港へとおしかけています。脱出を止めるため自爆テロまで起き、騒然とした状態が続いています。

タリバンのルールや禁則も実はタリバン内部のイスラム原理主義者のみに通用する「虚構」に過ぎないことを「知らない」ことが現在のような武力・暴力による制圧の正当性(ジハード・聖戦)を平然と行使できる意識に仕立てられてしまっているのではないでしょうか。

そのような意識が政教分離社会の多い世界のなかでも、政教一致を行う所以でもあります。

そもそも宗教も哲学、思想もすべてが人間の想像力の賜物である「虚構」なのですから。だからこそどのようにも創造でき、またどのようにも(コーランや聖書の)異なる解釈ができ、同じ宗教であっても教えが異なってくるのです。

このことは日本の憲法解釈についても言えるもので、刷り込まれた価値観、視点での解釈の違いを統一することがいかに困難なことかを物語っている良い例です。

例えば一神教(超越した人格を持つ一人の神を頂点に据える)は神が世界を創ると説き、仏教は神に救いを求めるのではなく、自らの解脱によって救われると説きます。
神道では八百万(やおよろず)の神を信じますが、それらは自然神の化身とされています。
多神教(ヒンドゥー教など)では多くの神像を祀り、その頂点にはブラフマン置きます。
これらバラモン教から派生した宗教が祀る神仏像には共通するものが多くあります。

そういうことを知った上で、自らの人生に役立つと判断して選択できれば問題はないのですが、往々にして生まれ育った環境により刷り込まれていることが多く、自由に考えることはできない空気の中で、知らず知らずのうちに禁則に従っていることも多いのではないかと思うのです。

世界に唯一のはずの神も、宗教によってイエスであったり、アラーであったりします。
ユダヤ教・イスラム教・キリスト教はいずれも旧約聖書「創世記」のアブラハムから派生しています。
同じ旧約聖書でも解釈の違いが下記のような教えの違いを産みます。

ユダヤ教;律法を守ることを重視。選民思想があり、救世主(メシア)の到来を信じる。
キリスト教;愛やゆるしを重視。イエス・キリストの復活を信じる。
イスラム教;六信五行(五信十行)などの善行を重視。

また生活のルールは
ユダヤ教;豚やイカなどは食べられない。安息日には一切の労働禁止。
キリスト教;宗派によっては断食を行うことがある
イスラム教;豚肉やアルコールは禁止。断食や巡礼などが義務。

それぞれの神は
ユダヤ教;ヤハウェ
キリスト教;イエス・キリスト、聖霊
イスラム教;アッラー

と、このような違いがあります。

また、仏教とヒンドゥー教も元は同じ宗教から派生しているので、共通点と相違点があります。
ヒンドゥー教も仏教もインドを発祥の地としています、インドではヒンドゥー教が広がり、それ以外のアジアに仏教が広まりました。

ネパールでは、仏教寺院(チベット仏教)とヒンドゥー教寺院が混在しています。
どちらもバラモン教と関係しています。

釈迦が生まれた頃は、ヒンドゥー教はバラモン教と呼ばれていました。
共通点は「輪廻思想」そして、数々の神仏の活躍です。日本の神道とも重なります。
ヒンドゥー教にはカースト制度がありますが、仏教にはありません。

基本的にヒンドゥー教徒は牛肉だけでなく、豚、魚介類、玉ねぎ、にら、らっきょう、卵、生ものなど食生活において主要な食材をほとんど避け、特にカーストの上位では菜食主義者が多いようです。もちろんアルコールなども口にしてはいけないものです。

また異なるカーストの位置にいる人たちと一緒に食事をするのも避けられます。
また、頭は神の宿るところなので絶対に触ってはいけない、人と話すときの距離も細かく決められているそうです。

耳も神聖なものなので引っ張ってはいけないなど細かい戒律もたくさんあるようです。
ラマダンという時期が来たら断食が始まります。
断食にもいろんな種類があり肉を食べない、全くなにも食べないというような期間も用意されています。

かつては日本の仏教でも、肉食を嫌い、特に僧侶は菜食とされていましたが、最近ではそのような禁則も各宗によっては緩められています。

「虚構」とは「物語」である、とハラリ氏(サピエンス全史著者)は語っていますが、こうやって各宗教をちょっとだけ覗いてみても、まさに「物語」であると、つくづく感じるのは私だけでしょうか。

ところで世界の宗教に共通項があります。
1,「救われたい」にこたえる
2,「人間は不完全」である

1、の「救われたい」にこたえられるために、超越した人格を持つ唯一神が必要だったと言えますね。そして、唯一神に依らなければ「解脱」(迷いの世界からの解放)の方法を学ぶ仏教の教えに従うか、多くの守り神の力を借りて救われようとします。
現在ほど世界の距離が近くなかった過去においては、国やごく近い地域のコミュニティの外側の情報に接することは困難なので、コミュニティー内のルール・習慣に従わざるを得なかったことが、それぞれの個人の人生を決定されることに抗えないということでしょう。
「知らない」が大きく関与していることを物語っています。

多くの仏神をまつり、崇めることで、不完全さを補い、災厄から逃れることができると説かれたら、信じたくなってしまうでしょう。

それが高じて、日々の祀り、崇めの行為を善行と錯覚したり、そういった行為を美化する風習が根付き、宗教の根底にある本来の「こころ」を忘れ去られ、簡単に聖戦の名のもとに戦争に走ったり、個人においても習慣の違いやちょっとした差異がもとになって怒りっぽい、攻撃的、差別的などいじめに走りやすい人間たちを創ってしまいました。

「救われたい」と願う人の宗教が、今尚絶えないことについては、読者の方の中には既にお気づきの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

それについての私の考察は、改めて紐解くことに致します。

しかし、2、の「人間が不完全」であることを知ることができれば、謙虚に耳を傾け、視点を変え、あらゆる事象からヒントを得て、自らの基準を常にアップデートしながら、自分にとって一番役に立つ基準や視点を更新することできます。
これこそ宗教の「こころ」ではないかと思っています。

このように、私たちはあらゆる外部環境から多くの刷り込みがなされ、その刷り込みを基準に、その視点から物事を判断し、日々の行動を続けながら、自己の人生を創造していることが解ります。

「みんながそうしてるから」という理由だけで自分の行動を決めている。
そんな心当たりはありませんか?

何故かムカつくことが多い、イライラしやすい、その反対にビクビクしたり、恐がることが多い、などの自己の人生にとって負の影響を及ぼすような資質が気になる人は、一度じっくりと自分の生い立ち、環境、関係性などについて思いを馳せてみては如何でしょうか。

身近な人から影響を受け、それが脳にこびりついて、本来の能力(潜在能力)に蓋をしてしまっていることを、ふと気づくことがあるかもしれません。

もし、それに気づくことができれば、その後の人生は格段に生きやすい楽しいものに変化することでしょう。

パソコンやスマホのOSアップグレードと同じく、自分という身体とココロのシステム(脳のネットワークが創り出す)が、不思議なくらいスムースに稼働し、引っ掛かりがなくなることを実感することでしょう。

次回はそれに関する情報をお話したいと思います。

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