『快三昧に生きる』 【23】

2020.11.9.

集中力も、後悔も、カチン、プチン、も無意識に支配されていることを述べてきました。
そしてその無意識が顕すそれらの自分こそ、その時点での等身大の自分の姿であることを知ることができました。

これは上辺をどう繕っても誤魔化せない自分の本性なのです。
しかし、それが解ってそのまま受け入れ続けるのは、それこそ怠惰と言えるでしょう。
自分の弱みが,構造的な偏向(ミス)に依るものなら、それを修正すればいいだけです。

無意識の軌道修正はそこから始まります。
⇒(物事の進むべき方向のずれを正すこと、誤った方向進みつつある状態を本来目指すべき方向へ進むように修正することなどを意味する)。

無意識の軌道修正によって得られるメリットは、自己の望む未来を創るための土台作りですから、望む性格、望む人格、望む習慣、望む幸せ、望む能力へ登るための階段が出来上がるようなものです。その階段を登る毎に望む自分の全体像へ近づいて行く魔法のような階段の内なる創発、つまり1+1以上のイノベーションを生み出す力を促すことなのです。

創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される

ウィキペヂアより

この創発と言う言葉はとても重要な概念です。
世間では組織内の相互作用に用いることが多いようですが、実は私たちの脳内においても誘発される現象です。
創発現象は非線形力学、複雑系、カオスの縁など多岐に渡る知識を要します。
私ごときの器量では、充分にお伝えできるかどうかわかりませんが「快三昧に生きる」【24】にてあらためて、私なりにできる限り解りやすくまとめてみたいと思います。

このように、科学界ですら、ニュートン力学からカオス理論、線形から非線形という全く異なる視点へと進んでいます。
古典物力学に親しんできた人たちは量子力学を理解するのに困難を極めます。

そうした中で、お互いの脳的環境をすり合わせる方法があるか?という疑問が発生します。

脳内環境とは、ここでは無意識で構成された「信念」を中心とした思考体系を意味します。
「自分の主張は正しい」と感じている源です。
何度もお伝えしているように"信念"の中身を紐解いてみると、その人特有の「生まれ」「育ち」「経験」「環境」「属性」などによって形成された"判断の枠組(パラダイム)"に基づいた"好き嫌いの感情"に過ぎないことを述べてきました。

そういった信念に基づいて仕上がった「主張(主観)」は誰にでもあり、それらの共通性には、世代が大きく関わっているということも解りました。
それを踏まえて他者との「相容れないパラダイム観」とどう向き合うか?ということです。

話せば解り合えるか?

相手が誰でも話せば解り合えると思っている日本人。
島国という特性を持った日本は永い間ほぼ単一民族だったことから、大多数が同じ常識、倫理観、価値観を持つという世界的に稀な国民といわれてきました。

ルールを守る、謙譲(譲り合い)、誠実、謙虚、嘘をつかない、勤勉、が美徳とされました。このような社会性に富んだ性質が高じて、他者の目を過剰なまでに気にする特徴があり、忖度、空気を読むなどの習性は、必要以上に慮(おもんばか)る、という国民性が原因であろうと考えます。

この国民性は大変統制しやすく、ナショナリズムに傾倒しやすいことから、戦前までは「天皇陛下バンザイ」というイデオロギーの下で日本は纏まってきました。

一人ひとりが自分の考えで動くのではなく、御上のご意向(国家、世間)に意識を傾けて足並みを揃えることに注意を払いながら生きる、という生き方です。
そうした国民性が「自分で考える」という能力を削ぎ取り、「足並みを揃える」思考体系をつくったという訳です。

ところが現代では「御上」の概念もほぼ消失し、それぞれが「自律」を必要とする、新しいパラダイムの圧力を浴びながら、グローバルネットワークにダイレクトに繋がることができるという科学技術の発展を得て「自分で考え、自ら選び、自分の人生を自分で創り上げる」という可能性が開かれました。それに伴い多様なライフスタイルが次々に生まれ、最近では定住しないまま仕事をこなす、という「アドレスホッパー」(固定の住居を持たずに転々とする多拠点生活者)が若者に認知されています。
このようなライフスタイルは従来型パラダイム観では遊牧民でない限り、社会的信用を心配して家族や周囲の反対を被るのではないでしょうか。。

こういった特に昭和以後の世代の価値観と、それ以前の世代の価値観には深い谷の存在を感じます。このように価値観の異なる世代間でも「話せば解り合える」のでしょうか。
この超日本的「話せば解る」の思考マインドは、戦前から、昭和までの世代(共通のパラダイムシステム)にしか通用しないような気がします。

そこに横たわる「お互いが歩み寄る」という精神の強要が感じられるからです。
このやり方は、お互いが釈然としないまま会話を終わらせる手段でしかないように思うのです。

またこのような方法はグローバル的にも通用しないのではないでしょうか。
経済や政治の場においては交換条件などで解決できるかもしれませんが、ことイデオロギー問題においては、「話せば解る」は蜃気楼のようなものと考えます。
むしろ、こういった単一思考型人間と、多様思考型人間では、あまり深く繋がろうとせず、表面的に繋がることに留意をした方が、お互いがストレスを受けることなく疲れない関係の維持を保つことになるような気がします。

仏教においてすら「密教」が存在するわけで、「話せば解る」なら「密教」は必要ないということです。
最初から「話せば解る」問題と「話しても解らない」問題を瞬時に嗅ぎ分ける脳力こそが、人間関係には最も必要な能力ではないでしょうか。
「話せば解る」も無意識のコントロールであることを認識すれば、問題もなく世代間でのコミュニケーション(軽い)は図れます。彼らも人間関係に、それほど深いつながりを期待していないのではないでしょうか。
そういう意味で重ね重ねですが、先述の北村匠海さんの「やんわりスルー」は、絶妙な処世術と思われてなりません。

休息の日
少し話が飛びますが、ドイツに滞在しているときの経験です。
娘の出産に問題を抱えていたために、その介護に行っていた時のことです。
動けない娘の代わりに、転居したばかりの部屋を便利に使うために、棚作りをしていました。丁度それが土曜日だったことから、隣人から「今日は休息日でしょ、大きな音をたてないで!」と叱られました。

「休息の日」はキリスト教の「安息日」のことです。
旧約聖書の『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。週の7日目と定められており、土曜日にあたる。
旧約聖書の1日は、基本的に日没で区切るので、「土曜日」というのは深夜を一日の始まりとする現代の時法でいえば金曜日の日没から土曜日の日没までの間を言う。
安息日である土曜日は調理を行わない。
金曜日の日没前に調理して冷めたものを食べるゲフィルテ・フィッシュが生まれたのはこのためである。

安息日

このことから、コールドミール、ドイツ語でカルテスエッセンと呼ばれる、パンとチーズとハムorソーセージの冷たい食事の風習が始まったようです。
ドイツ人の夕食はコールドミールが多いようで、病院食も夕食を含め、コールドミールばかりの印象がありました。

それはさて置き、この土曜日を「安息日」とし、キリスト復活の土曜日の翌日、日曜日を、主の日とし「礼拝の日」と決め、世界に広がったようです。

土曜日が「休息の日、」日曜日が「礼拝の日」とすれば、月曜日から金曜日までは自動的に「労働の日」となります。
このように宗教が文化をつくり、システムをつくり、それに従って人々の行動も制御されることは言うまでもありませんが、ここで言いたいのは、始まりは曖昧なキッカケだったということです。

人々の意識下に集合的無意識として刻まれたことが、その国ばかりか世界中に何の疑問も根拠もなく広まり、人々は抵抗なく受け入れ、その習慣が文化となり、システムとなっていることも多いということを言いたいのです。

「楽しいこと」が仕事なら、土曜日も日曜日も、時間の制限もなく集中できるときにした方が効率良いこともあります。
そのことを落合陽一氏は「ワークアズライフ」と称して提唱しています。
詳細は「快三昧に生きる」【10】、【11】をご覧ください。

ドイツ人は日本人と勤勉さを競う国民です。
ですが、当時(18年前)はまだルールや制限が日本以上に強いことに、窮屈さを覚えたことを思い出します。その窮屈さは「ナチス」を思い出すほどで「こんな国には住みたくない」と秘かに思ったものです。

決してキリスト教を否定しているわけではありませんが、「神は死んだ」という言葉を聞くようになってから久しく、ITの普及は全世界に影響し、若者たちは神を介さずダイレクトに世界と繋がり「自分で考え」「自分で調べる」手段を手にしたことが大きなキッカケとなって、どの国の若者たちも、親世代ほどの敬虔な宗教心は少しづつ薄れているように思われます。
このように2千年にも及び保たれていた、人間の無意識の刻印が、今入れ替わろうとしていることに、深い感慨を覚えています。

ついでと言っては語弊があるかもしれませんが、旧約聖書の創世記「エデンの園」について少しばかり触れたいと思います。

神から禁じられた「善悪を知る智慧の実」を食べてしまったアダムとイヴ。
そのために人間は死を迎えることになった。
知恵の実を食べるまでは、アダムとイヴは善悪を知らなかった、ということですね。
これが善、これが悪、という概念がなかったのです。

アマゾンの奥地に住むと言われる『ピダハン族』(ピラハ族)という少数民族のお話を聞いたことがあります。

彼らの話す言葉の中に、過去、未来、幸福、不幸、色や数を表す言葉、昼と夜、方角を表す言葉、後悔の念、罪悪感、心配、赤ちゃん言葉、ありがとう、こんにちわ、さようなら、夫婦、等、二項対立的概念がありません。
ピダハンは一元の世界に住んでいるようです。
ピダハンは自他を分けて考えることがありません。人間も動物も植物もみな全体の一部です。
視点は「全体」にあるのでしょう。
全体的、普遍的な世界に住んでいるということです。

ピダハン族に「神はいらない」と言われたキリスト教布教のために訪れた宣教師は、逆にピダハンから学ぶことが多く、信仰を捨て語学者になってしまったというお話です。

言葉は、存在するものを分割する役割があります。
言葉は一元の世界を、二元世界に、そして多元の世界へとどんどん分割していくのです。

「善悪を知る」ことは、そのように分割された概念世界へと入ることです。
それが「智慧」という概念になります。
そして、彼らは言葉よりも行動を重んじるようです。

参考:ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民

 アマゾンの民ピダハンの例でから学ぶと、私たちは善悪(分割)を知りそれが高じて、全てに「名前」を施し、複雑な概念を生み、育て、その結果として、不幸、悪、恐い、間違い、老い、病気・・・などの劣勢(ネガティブ)概念に支配されるようになり、死を近づけたと言えるのかもしれません。

つまり、神から善悪の概念を教えられ、しかもそれを知ってしまった人間は「原罪」を背負わされたということなのでしょうか?

かくて、人間はその「原罪」から解放されることは無く、一生を苦しみの中で暮らすことを受け入れざるを得なかった。ということになります。
その救済を買って出たのがキリストということでしょうか?

現代の文化で解釈すると「マッチポンプ」のようです。(マッチで火をつけた者がポンプを持で水をかけて消す)一方だけでは成立しない、二項対立の概念がないピダハンには、当然のように「神はいらない」となります。一体どちらの世界が平和でしょうか?

これらを構成しているメンタリティーの構造的問題(レヴィ=ストロース、見えない構造が人間の考えや行動を決定しているとする思想です。「構造」とは、変換を行っても不変の属性を示すこと)について以下にまとめてみました。

 『野生の思考』(1962年)は、著者レヴィストロースが、文字を持たない未開社会の神話的思考は、文明社会の科学的思考より低次のものではなく、世界を分類し、秩序づける厳密な論理性をそなえていると説く。西洋の科学文明を中心に考える現代人を痛烈に批判しました。
レヴィ=ストロースは、社会学教授として赴任したブラジルで人生を一変させるような出会いをしました。調査で出会ったアマゾン川流域の先住民族たち。そこには、想像もしなかった豊かな世界がありました。
先住民たちの習俗や儀礼、神話の数々が決して野蛮で未熟なものではなく、極めて精緻で論理的な思考に基づいていることを発見します。彼はそれを「野生の思考」と呼びました。
そして彼は、未開民族の思考を野蛮とするのは、西洋近代の「科学」にのみ至上権を置く立場からの偏見でしかないといいます。
「野生の思考」こそ科学的な思考よりも根源にある人類に普遍的な思考であり、西欧文明を絶対視する西洋中心主義を批判し、西欧中心の文化観・歴史観を批判します。
近代科学のほうがむしろ特殊なものだと結論づけ、「精密自然科学より一万年も前に確立したその成果は、依然としてわれわれの文明の基層をなしている」と主張します。

科学的思考を技師の計画的作業にたとえ、野生の思考を、器用人(ブリコルール)によるブリコラージュ(器用仕事)にたとえています。

本来、超越者などいない設計図なき柔軟で豊穣な意味の世界であるはずなのに、意味は固定したものであるという蜃気楼のような希望を勝手に抱き、近代知のその希望は必然的に破れ、勝手に絶望しているわけです。と語っています。

「科学的思考」に対する「野生の思考」とは

  • ・設計図に依るのではなく場当たり的で刹那的なものづくり「臨機応変」(エンジニアとの対比)
    ・「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかする
    ・「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ、保存された要素「断片」
    ・「理性的」ではなく「感性的」

人類学を数学的で科学的な定式を用いて論じた本書「野生の思考」は、その後のフランスの思想家の数学や化学への思考に影響を与えました。

西洋の思考が力・質料・数字などの概念を使う抽象的思考であるのに対して、野生の思考は動物・植物・昆虫など経験的な対象を使う具体的思考をその特徴に持つ。野生の思考は、感覚的な対象を使いながらも、きわめて厳密な論理を持ち、世界をくわしく分類し、秩序づけ、体系化している。自然を支配しようとする西洋の思考に対し、自然に対する畏敬の念を持ち、すべての生物・自然に敬意をはらう傾向にあると言うのです。

ピダハンの話と重なるところが多いですね。
レヴィ=ストロースは、野生の思考に対し、啓蒙思想に基づいた、西洋の抽象化された科学的思考を文明の思考、栽培の思考と呼んでいます。
栽培≒養殖ですね。
ピダハンの「神はいらない」は、栽培(養殖)されずとも、自分の裁量でちゃんと楽しく生きていかれることを示していることが解ります。
未開の地の民族は共通して、私たちのようにストレスや右往左往では生きていないということを知り、何だか文明人の私は恥ずかしくなりました。

 

「快三昧に生きる」【22】

「快三昧に生きる」【24】

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