『快三昧に生きる』 【20】

2020.10.17

無意識が意識を操る「受動意識仮説」

無意識に刻み込まれた「思い込み」「信じ込み」。
私の場合は「運命」という根拠の解らない怪物の囚人となって、大きな力に操られ、「運命」のレールに乗ったまま、操り人形の人生を歩む中、生命まで危うくしてしまう、という偏向の半生を生きてきました。
「運命」には逆らえない、家族もすべて「運命」によって与えられたもの。それを拒否することなどできるはずはない。世の中すべてが「運命」によって決められ、どんなに苦しくても「運命」の決めたレール上を、苦痛に耐えて歩いていくしかない。この世は修行の場、苦の娑婆、それが自分に与えられた人生なのだから。

今、思い返すだけでも心は真っ暗闇の中に吸い込まれて行きそうです。
これでは生きる悦びなど微塵もなく、死んだ方がましという考えが湧き上がるのも極々自然のことです。

2020年に入ってから、芸能人の自殺が目立っています。

三浦春馬さん(30歳)、芹名星さん(36歳)、藤木孝さん(80歳)、竹内結子さん(40歳)と、有能な惜しい人材を失うことになり残念でなりません。             ウィキペディア

少なからず、彼らも私の体験したような暗闇の中にいたのではないかと思うと、心が痛みます。

関連する記事の中に、「若者の死因のトップが「自殺」である日本」という記事を見つけました。

厚生労働省は今月、昨年2019年の「人口動態統計」を公表している。  そこで驚かされるのは、15歳から39歳までの死因の第1位がいずれも「自殺」であることだ。5歳ごとの年齢階級別に表示される死因の順位を見るとわかる。2人に1人がなるとされる「がん」よりも多い。しかも、10歳から14歳まででは、「自殺」が死因の第2位を占め、2017年には同年齢階級の第1位になっている。  さらには、昨年の統計で40歳から49歳までの死因の第1位は「がん」だが、第2位は「自殺」となる。50歳から54歳まででは「自殺」が第3位、55歳から59歳までで第4位、60歳から64歳までで第5位に位置する。  国内の日本人の自殺者数は、3万2000人を超えた2003年をピークに、年々減少傾向にある。ところが、20代、30代の死因の第1位が「自殺」である傾向は、もう20年以上変わらないで推移しているのだ。  こんな国はない。こんなに若者が自ら死を選ぶ国は、先進国といわれるなかでも日本だけだ。

この事情は、国会議員の間でも問題視するところで、自殺問題に関する超党派の議員連盟もある。それでもこの傾向は変わらない。  米国、中国に次ぐ世界第3位の経済大国でありながら、若者にとっては生きづらい国であることを統計が示している。  相次ぐ芸能人の自殺の年齢層を見ても、この事情に当てはまっている。  もともとこの国は、同年齢層の自殺者が多いという異様な傾向にあって、それが芸能人の自殺報道の多発で浮き彫りになって来た、と受けとめるべきだ。いまのところ、コロナ・ストレスと自殺を関連づけるものは、なにもない。  仮に、新型コロナウイルスの影響が出ているのだとすると、来年に報告される自殺者の数は、20代、30代に限らず全体的に増えてくるはずだ。それも「新型コロナ関連死」であって、本来の20代、30代の自殺の多さを解決するものにはならない。

Yahooニュース

また、日本とよく似た文化を持つ韓国での自殺者はOECD加盟国の中でトップだそうです。

他人の目を気にするという点では、韓国人は日本人以上ではないだろうか。
韓国は儒教の影響がいまだに強く、父権社会の影響が強い。若者は年配者の目を常に気にしており、束縛は日本以上だ。
また、日本より血が濃いぶん、子供は家族や親族の期待も一身に背負うことになる。幼いときからその重圧を感じて勉強に取り組まざるをえない。しかも、頑張って一流大学には入れたとしても、大学の中でも競争が激しく、実際に一流企業に入れる者はさほど多くない。韓国の若者失業率が高いのは、家族の手前もあって無名の中小企業で妥協することができず、就職浪人する学生が多いことも一つの理由である。
日本の若者の自殺は、いじめなど学校やSNSにおける人間関係がきっかけになることが多い。韓国の若者は、これに加えて、絶えず競争にさらされているので、努力が報われず絶望し、将来を悲観することが引き金になりうる。進学はともかく、本来、就職は学生個人の問題であるはずだが、韓国ではあくまで家族全体の問題である。そういった体面を重んじる風潮と就職の厳しさが、若者を追い詰めている面があると考えられる。

  DIAMONDonline

こうして観ると、家族、親族の期待、他人の目、体面、などを競争社会が後押ししていることが解ります。
見えない力、集合意識(実は無意識だった)の圧力は私のかつての運命信仰のように「受け入れたくないけれど、受け入れざるを得ない」というファクトとなって、永年の間、真綿で首を絞める状態を作っていたと言えのではないでしょうか。

韓国文化では日本以上にそのファクトは多く、強烈なことがわかります。
直接的な「自殺行為」から一時は逃れても、フィジカル的影響となり、心を病み、肉体にまでも影響するという結果につながります。もちろんうつ症状から、些細なきっかけがトリガーとなって自殺行為へと走る場合もあるでしょう。

私たちの無意識は、命を左右するほど、見えない、気づかない無味無臭の毒になる可能性を秘している、そのように考えると、そら恐ろしくなります。

私の偏向的思い込み「運命」も、このような文化的背景・集合意識(実は無意識)などからの影響を強く受けていたことを、無意識の軌道修正以後になって気づきました。一つ間違っていれば私もとっくに命をもっていかれていたでしょう。

もともと韓国人は日本人ほど労働を重視してこなかったと言います。「晴れた日は耕し、雨の日は本を読む」という暮らしを理想とし、働くことに時間を割かずに本を読む暮らしこそ最上と考える文化背景があるそうです。
「お金持ちになって成功する」という思考は、日本企業が進出してから伝わったようです。

 DIAMONDonline

幸運なことに無意識に翻弄された子供時代から学び、そのことがきっかけとなって、自分が「生き生きと生きる、納得できる生き方」というミッションを持つことができました。

私にとっての最大の関心事、そして最大の謎はそれゆえに生涯の課題となって、私をその思索の旅へと向かわせたのです。それによって救われたと同時に、ライフワークとなってわたしを支える礎となりました。

当時はまだ、ユングや他の心理学者、哲学者などにより、多くはない理論の上に研究が進められている途上だったのか、受動意識仮説のような理論もなく、無意識はそこまで解明されておらず、形而上学的立場として扱われることが多い情況でした。

私が、仏門に入ったのは30代なかばの頃でしたが、当時は今以上に「他力本願信仰」には拒否反応を示していた私でしたから、自分でも不思議なくらい、その拒否感を凌ぐ関心と興味に迫られたのを憶えています。それは仏教が根本原理とする「縁起」の思想でした。

「縁起」の概念は一言で言うと「私はイリュージョン」ということになります。イリュージョンですから実体はありません。「縁起」は「私」に止まらず「全ての存在」を説明できる、万能の普遍的世界観・システムと言っていいでしょう。これこそ求めていた一番納得できる世界の、生命の、そして私の仕組みだ!そう思ったのです。

私の中では、この「縁起」システムは「縁起イズム」として定着しています。

中身を説明すると、すべての存在はそれ一つだけで成立しているものはなく、多くの関係性に依って成り立っている。その関係性は常に変化しながら存在自体を変化させているというものです。
丁度一つ一つの存在が、オリジナルジグソーパズルのように組み合わさってできています。そのジグソーパズルの一つ一つのピース部分は、常に変化したり、消えて亡くなったり、と入れ替わって行く、変転動画パズルを想像してみると解りやすいでしょう。

更新したり、増減を繰り返しながら、存在しているのですから、当然その存在の実体はない、ということです。どのように変化しようとも「私」は一瞬一瞬変化した「私」をすべて受動的に受け入れ観察し、その体験を記録する。体験が全体のジグソーパズルにフィードバックすることで、新たなる関係性を生んだり、それまでの関係性が消えたりする、ということです。

つまり「私」とは幻想(イリュージョン)だったのです。
この考えが「空」や「無」の理解を深めることになりました。

こうした「縁起」という関係性のシステムを知った時に、信仰のためではなく、紀元前5世紀前後の仏教の開祖である釈尊が、科学で確実に解明できていない、そんな発見が既に成され、気づいていたということ、それを普遍理論として構成し、伝達していたということに驚き、深い関心を抱いたことがきっかけとなって仏門に入ったのです。
ただ仏門と言えども、日本文化や資本主義の影響下にあり、何かと俗世の制度、俗世の常識に従うことが俗世以上に多く感じられました。
それは、個々や集合の無意識強化のイメージトレーニングを強めることになる、儀式や行に依るところが大きいのではないかと感じています。つまり個々や集合の無意識が俗世以上に資本主義的であれば、宗門全体がそうなるのは必然のことです。

結果的には「縁起」は納得できる答えとして確信を得ることができました、そして今ではその確信は私の核心となって、無意識の中心にどっしりとその座を揺るぎないものにしていることはありがたく、何よりの賜物となっています。

それとは別に神秘性や、絶対者への信仰という組織的集合意識のソーシャルプレッシャーには馴染むまでには至らず、30数年後に還俗することになりました。しかしながらこの体験が、益々主体の潜在意識の重要性を確実なものにしたことは間違いありません。

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科 前野 隆司教授による、受動意識仮説という無意識中心の理論は、この「縁起」の概念とも、ぴったりと一致したという訳です。前野隆司教授に感謝しています。

受動意識仮説について更に解りやすくまとめられた日経新聞記載、村上憲郎(むらかみ・のりお)元グーグル日本法人社長兼米本社副社長による、「脳はなぜ『心』を作ったのか―『私』の謎を解く受動意識仮説」の紹介から、「受動意識仮説を実感する方法」について、とても解りやすく纏められていましたので、そこから抜粋し、お伝えしたいと思います。

「私」は「司令塔」でなく「観察者」
       「意識主体」の「私」は眺めているだけ

お察しの通り、「受動意識仮説」というのは、それら一連のこと(面白い、退屈、うるさい、いい匂い、この後どうしよう・・・・等々)は、私たち人間一人一人が、「私が」という風に主語で表す「意識主体」がやっていることではなく、「私」は、私で起こっているそれらの事々の単なる「観察者」にすぎないという仮説なのです。

「ちょっと待ってくれよ。そういう事々は、百歩譲って、『受動意識仮説』の通りとしよう。しかし、もっと能動的なこと、例えば、指を動かすといったことは、俺の『私』が、やっていることとしか思えんぞ!」という声が聞こえてきそうですね。ところが、実は、それがそうではないのだという実験結果があるのです。

カリフォルニア大学サンフランシスコ校のリベット教授が行った実験で、1983年の論文で発表されたものです。実験の詳細は、例によってググッていただくか、前野教授の前掲書に詳しく紹介されているので、お読みいただくとして、結果だけ申し上げます。

脳の中で「指を動かせ」という信号が指の筋肉に向けて発せられた時刻と、「心」が「指を動かそうと思った」時刻を比べたら、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられた時刻の方が、0.2秒、早かったのです。つまり、脳の中で「指を動かせ」信号が発せられてから、0.2秒たった後で、「心」が、「指を動かそうと思った」というわけです。

言い換えると、残念なことに(でもないか)俺の『私』が、能動的に指を動かそうと思ったのではなく、俺の『私』は、脳の中で「指を動かせ」信号が指の筋肉に向けて発せられたのを観測して、あわてて(0.2秒も遅れているわけだから、そうでもないか)「俺の『私』が、能動的に指を動かそうと思ったんだ」と思ったというわけです。

人工知能を構築する上で必要な「受動意識仮説」の理解は、これで十分ですが、能動的な「意識主体」が無くても、私が勝手に動いているのなら、受動的とはいえ、なぜ「意識主体」が生まれたのかということを最後に説明しておきましょう。

■AIは「観察者」を作れば構築できる

前野教授説では、経験を記憶していくエピソード記憶を行うためには、エピソードの主語となる主体を必要としたからだということになっています。これまで説明したように、意識主体は、私が勝手に動いている結果を、ただ単に観測しているのにすぎないのに、「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」と思い込んでいるだけなのです。「私がやったんだ」「私が感じたんだ」「私が思ったんだ」というエピソードを記憶に留めるために。

人工知能の構築は、これまで、「司令塔」作りを目指して、失敗してきました。「受動意識仮説」に基づく人工知能の構築は、様々な部分機能を果たす要素の集まりを作り、その個々の機能要素が出力してくるアウトプットをただ単に観測している観測者を作ればいいということになります。

映画「2001年宇宙の旅」を見た人は思い出して欲しいのですが、「反乱した」HAL9000は、ボーマン船長が、HAL9000の様々な部分機能を果たす要素モジュールを引き抜いていくにつれてその能力を失い、その主体をも喪失していきました。

さて、仏教に詳しい読者の中には、「今回の話は、『五蘊(ごうん)非我』もしくは『五蘊無我』の話ですね」と思われる方もいると推測します。まさしくその通りですが、その話は、この連載コラムの趣旨を著しく逸脱するので、ここでは、控えさせていただきます。ご興味のある方は、それこそ、「五蘊非我」で、ググッて下さい。

日経新聞

また、前野教授は『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』技術評論社、の中のプロローグでは次のように語っています。

本書では、歴史の潮流を独断で俯瞰し、一つの大きなトレンドをあぶりだしたいと思う。つまり、意識は受動的なものと捉える東洋思想の時代から、キリスト教、近代哲学と続く西洋思想の時代、すなわち、意識は能動的と考える者が主流の時代、そして、東洋的な考え方が西洋にも受け入れられ始め、再び受動性へと向かう現代、という数千年単位の波動を描き出したいと思う。もちろん、思想や哲学の歴史は私が問題にする意識の受動性または幻想性のみを柱に発展したわけではないので、このような見方は独断的・一面的とのそしりを免れないかもしれない。しかし、私は、思想史・哲学史の研究者ではないので、一般的な思想史・哲学史をまとめるつもりはないし、できない。そうではなく、本書は、思想・哲学の大きな流れを、意識の受動性・幻想性という断面から独断で切り取ってみるという試みなのである。したがって、断片的だというご批判はご容赦いただきたい。そうではなく、私が独断と偏見で切り取る断面を、その切り口からお楽しみいただきたいと思うのである。後略

 

また前野教授は『思考の整理術問題解決のための忘却メソッド』朝日新聞出版、200910の中では、「私は、複雑な物事に対する、システムとしての、本質的・根源的・大局的・俯瞰的な見方に興味があるのだ。つまり、システムをあくまで分解していくことによって理解しようとする、要素還元論的な見方とは対極の」ということを語っておられます。

 

 

 

 

人生はシステムである

ところで、システムについて体系的に人に伝えるのはとても難しい。システムとは何かを他人に伝える際に、以下のような、超えがたいパラドックスが存在するからだ。

「システム思考が身についた人にしか、システム思考は理解できない。」
「システムについて抽象的に語ると理解されず、具体的に語るともはやシステムの説明ではなくなる。」
人生と同じだ。

前野隆司公式サイト

と、語っておられます。わたしも全く同感です。
「縁起」の思想か源となってAIのディープラーニングやニューラルネットワークを覗き見るとき、私の「システム」的思考は拡張されるような気がしています。

無意識に操られ、人生を棒に振るようなことがないように、自らの無意識の癖を自らの理想に近づけたいとは思いませんか?

 

「快三昧に生きる」【19】

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