『快三昧に生きる』 【18】

2020.10.5

信念はスペックの力に優る

「信じていること」が視点となって、あらゆる現象の判断の基準になっていることをお話してきました。そこから発展して、「自信」は構築されます。
「信じていること」に確信を持った時、「生きる自信」が生まれます。
自己スペックに関わらず信念が確立すると「生きる自信」につながります。
「生きる自信」とは確固たる自己肯定感とも言えます。

大抵の場合、自分の信じていることに確信を持つまでには至らず、迷ったり、揺らいだり、不安定のまま人生を歩んでいます。
そうした不安定さから、自分が信じていることに共感を得たり、同意されたりする他者を求め、他者によって確認するという行動が続きます。
「自信を持てない」と感じたとき、自己の基準と体感にギャップがあるかもしれないと思った方がいいのかもしれません。「自信」はスペックよりも「信念」に依るものだからです。
往々にしてストレスやフラストレーションを抱えながら我慢したり、頑張ったり、諦めていることはないでしょうか。

2015.5.18「意識の力」“信念はスペックの力に優る投稿から”
自分を信じると書いて「自信」という言葉ができあがります。自信とは信念の力にほかなりません。スペックの力とはご存知の通り、これができる、あれもできる、という機械では機能性のこと、人の場合は知的能力、数学に強い、ITに強い、理系は得意、アスリートなどの身体的能力では走りが得意、泳ぎが得意、感性の能力においては芸術、芸能、文化系などいろいろな特技の能力を指します。このような特技を持つことはもちろん自信の一端につながるのですが、『持続可能な自信』ということになるとどうでしょうか。中略

自分自身への評価を他人に依存することを常としている多くの人は、自分以外の外側の評価に翻弄され、「気休めの自信」にしがみつきやすくなります。ちょっとした称賛や、低い評価に一喜一憂し、ココロが安定しないと傷つきやすく、つい周囲に迎合してしまう。そうなるとどんどん自分から遠ざかり、自分を観るより周囲の顔色ばかりが気になるという結果を導きます。中略
私は常々、人はスペックを身に着ける前に、根拠がなくても揺るぎない「生きる自信」を身に付けることのほうが大切なのではないかと考えているのです。中略

自分をないがしろにして、誰かに認めてもらい、注目され、大切にされたいと願うことは、本当の幸せ「持続可能な幸せ」ではなく「気休めの幸せ」を求めていることになるということを、気づいていない人たちの欲求のように思います。後略

如何でしょう。
自分に「自信」をもって生きる。
そのことがスペックに優る、ということを信じていただけますか?

信念は「生きる自信」の試金石(価値や力量を測る基準)

「生きる自信」につながる信念が備わると、当然他者と比較する必要も、同意を得る必要もなく、共感されたり、称賛されたり、逆に否定されたりしても一喜一憂することがなくなります。常に他者の言葉よりも自分の信念に従っているからです。
そして、他者を見るときも彼らの言葉や行動から「信じていること」が見えるようになります。「信じていること」の違いが観えれば、批判したり、対抗したりする必要がまったくありません。彼らの人生は彼らのモノで、どのような無意識の基準でも、そこに他者が介入できるものではないからです。同時に、他者が自分の無意識の中に介入することなどできるはずはありません。

もし、他者の言葉に動かされてしまう自分があったとしたら、それは自分よりも他者を信じているということです。
表層意識はあたかも無意識とは別の意識を働かせているように見えますが、実は無意識にコントロールされながら、自分でコントロールしているかのように勘違いしているのです。

迷い、焦り、不安、怖れ、苦しみなどネガティブな感情も、面白い、楽しい、快い、などのポジティブな感情も、刷り込まれた無意識の「信じていること」が基準となって、脳を刺激した結果の賜物です。
納得できる刷り込みは自信につながりますが、納得できない刷り込みは、心の欲求を無視し、頭の欲求に従っていることになります。このようなこころの摩擦状態が、ストレスを生む原因になるのです。

習慣とは、本質的な行動を無意識化しているということなので、無意識に行動をしてしまいますが、本当に納得していない行動をしてしまう事も多々あるということを知り、時々自ら検証してみることが必要です。

もし、即座に‟イエス”の言動が発せられなければ心が‟NO”を発しているということでしょう。

「詳しく知らないけれど信じている」ということも、不思議に思いますが、よくあるようです。こういった一見矛盾しているようなことでも、成長過程の環境や、出逢った人たちの影響を受けて、無意識化していることは多々あります。
そのような無意識を基準に、人生が構築されていることを再認識すべきです。

このように自分のことを多角的に観察することをこれまで教育されてきませんでした。
いつも自分の外側にある「一つの答え」を当てる学習指導によって、私たちの無意識には「何が正しいか?」という思考メカニズムが刷り込まれてしまっているということを忘れないでください。
「正しい」はその人その場その時によって千差万別です。

戦争が肯定する殺人は悪ではなく善とされます。その場の空気で「おかしい」と思っても全体に加担してしまう悪も多数派により善とみなされます。

誰かにとっての「正しい」が、その他の人にとって「正しい」とは限らないということを、刷り込むべきなのです。
そのことが拡散すれば“戦い”や“争い”も少なくなるはずです。

第一、自分と戦うことがなくなります。
これまでのように、自分を虐め抜いて、根性やガッツを養うという生き方が変わります。
この国では「自分と戦う」ことを美化する風潮がありますが、自分との闘いはストイックになりがちです。厳しく律すことが好きな人には否定しませんが、楽しく律(自己管理)することも自他ともに幸せになるのではないでしょうか。「楽しく律する」にも市民権を与えたいものです。それを後押しするのが「自信」です。

厳しく律することが好きな人は、ストイックが快い感覚なのかもしれません。そしてそのことが「自信」につながっているのかもしれません。アスリートのドーパミンやランナーズハイはその典型でしょう。好きな方を選んで確信することです。
いづれにしても人は、何らかの自信がそなわっていないと不安で怒りっぽく、嫉妬深く、心配性、そして傷つきやすいものです。
そんな人を見たら「あ~自信がないんだな~」と思えば、腹も立ちません。
そして、根拠のない自信に満ち溢れている人は、完璧に自分を信じている(自己肯定している)ということです。

もしあなたが、人を求め、属することを求め、依存や、パラサイトに陥ることがあったり、自分の行動に迷いやブレがあると思った時、あなたはあなたの「信じていること」を確信していない(自信を失っている)ということです。
そんな時には、視点を見直す時期を示しているのかもしれません。
その機会を見逃さず「信じている」刷り込みのテェックを試みるのは無駄ではないはずです。

【16】で示したように、自分にとって大切なモノ、または譲れないモノを書き出し、絞ってみるということから初めてはいかがでしょうか。

「信じる」は感情が後押して強化
「信じる」とは、そこに感情を伴うことによって強く意識されることです。
自分の中で一番の価値に据えると言うことです。
元は自分の外側に合ったものが、内側に入り込み、どっしりと自己の頂で鎮座し動かなくなっていること。と言い表せます。

2015.6.17「意識の力」“不快への対処”より
『快』も『不快』もそれぞれに敏感であるほどより敏感に反応する、ということです。
「耐えることが好き」という人がいます。傷みに堪え苦しみに耐えることで快感を得られる人は『不快』の処理は必要ありません。
一方「傷み苦しみ」に敏感に反応する「神経質」という言葉が当てはまる人では“嫌!”と思うことが起こる前から“起きたら嫌!”というこころの働きでより防御し守ろうという意識が働きます。警戒心が却って必要以上の傷み苦しみを味わってしまうことになる。ということを「神経質」と言って片づけていました。

中部大学総合工学研究所特任教授 武田邦彦氏曰く
“人は25歳くらいまでに正しいと思うことを決める。人間は正しいと思うことを決めてないと生活して行けないから、その後60才までそれは変わらない”

武田教授の理論から思い出すことがあります。
昭和の高度成長期の企業戦士として熾烈な戦いをしてきた人たちの中では、「考える」ということを「仕事」と感じている人がいるようです。
そんな人が退職後は「考える」ことを放棄して、日がな一日、ぼーっと考えないまま過ごすことを選択した人を見てきました。
結局その人は認知症になり「考えない」人生を創造しました。
仕事として「考える」を強制され、考えることに疲れてしまったのでしょう。

自発的行為と強迫的行為の違いによる結果が招いてそのような人生を終えることになってしまった人は少なくありません。
日本の経済戦士たちはこうして、資本主義社会の犠牲者となって、人生を終えていると言っても言い過ぎではないでしょう。

【16】で先述しました、「昭和キャリア」の刷り込みによるものです。
本当にお気の毒としか言いようがありません。

残された私たちは、その轍を踏んで犠牲者になる前に、自分の刷り込みを確認し、人生に邪魔になっているものを洗い出し、無意識から排除することを考えるべきです。
老いも若きも、人口減少の中で残された幸せを享受し、エンパワーメント日常 の方向へ向かうべきと思います、

注:広義のエンパワメント(湧活)とは、人びとに夢や希望を与え、勇気づけ、人が本来持っているすばらしい、生きる力を湧き出させることと定義される。

エンパワーメント

「健康志向」でジムに通ったり、山ほどサプリメントを常用したり、そこまでいかなくても、ほとんどの人が身体の健康のために何らかの努力と資金をつぎ込んでいます。健康話は挨拶よりも優先しています。
また、「いっぱい食べて、いっぱい働く」というような習慣も常識となり、現代人の食べ過ぎによる健康障害も問題化しています。
こうして私たちは、生産のために身体を奴隷化しているように思うのです。

農業革命により「人間は穀物の奴隷になった」と、ユバル・ノア・ハラリ氏は『サピエンス全史』の中で語っています。

このことに共感する私としては、資本主義経済にも同じような構造が見えているのです。
コロナ禍で、はっきりと確認された「消費経済」の重要性です。

資本主義は利益を求め競争するイデオロギーです。この中では消費こそが経済を促し、社会を安定化させます。需要の拡大が生産を拡大させ、雇用を安定化するため、常に消費を煽り、経済の流通を加速するほど利益が上がる構造です。

中心にあるものは人間の尊厳よりも高いお金の価値です。

そのために当たり前のように人はお金の奴隷となっています。企業は利益のためには人を捨てる仕組みになることは当然の構図です。

その中で人は「沢山稼いで沢山使える」ことが“成功”とされてきました。そのための犠牲、蹴落とし、欺瞞も暗にやむを得ないと刷り込まれました。そこに不当なマージン・賄賂が生まれ、裏金が横行、さらに悪質ブラック企業が生まれると言うような、邪(よこしま)な社会習慣が肯定されます。

その根源は、沢山稼いだものが出世し、出世して地位が上がれば奴隷になる人を使えます。そして彼らに目いっぱい働かせ、搾取により更に利益を得る、こうしたことが「成功者」として称賛されるという仕組みが過度に進んだ結果です。

資本主義経済というピラミッドは戦場です。その下層の人々は突撃隊の兵士、命を懸けて前進先進することが生きる術、後退は死を意味するのです。そんな人たちは日々が大きなストレスを浴びる戦場ですから、少しでも癒しとなるモノ、コトにお金ををつぎ込んで、かろうじて命を繋いでします。

そしてやっと定年を迎え、働くことから解放される頃には身体はボロボロ、疲れ果て、ホッとした途端に多くの症状に見舞われ、せっかくの自由な時間も病院通いと安静を言い渡される、そんな人ばかりみてきました。これが資本主義のもたらす実態です。

かつての人々が創り上げて発展を遂げたという資本主義のツケがまわってきたということです。そのことに気づいている人たちも少なくありません。

コロナパンデミックがトリガー(引き金)となって、近い将来ポスト資本主義の時代が来るのもそう遠くはないでしょう。

考えてみると、「消費」とはもともと「資源」を費やすことに他なりません。地球の資源には限りがありますが、消費の拡大には限度がありません。今後も未発展・発展途上の国々の文明が発達するに従ってて地球規模で消費は劇的に拡大することは間違いありません。先進国の消費がこのまま、または今以上に加速すればどうなるか、考えただけで恐ろしくなります。

【14】で「低燃費・高満足の生活」を提案しましたが、一億総病人社会の原因が過剰な生産システム⇒過剰な消費システムに在るとしたら、先進国の私たちから、働き方を考え直し、ノンストレスな生き方に転換する必要があるのではないでしょうか。

すべての発展は「人の幸せ」という受益が根源的な目標のはずです。
働くことが“面白い”という習慣さえ確保すれば、それだけで幸せ人生を享受できるでしょう。

エンジョイできる働き方は、直感力、やる気、集中力、根気力を高め、好奇心を旺盛にします。
このことは同時に個々のスペックを向上させます。今以上に人間の資質が向上すれば、当然地球的規模で人間の存在と持続可能社会の実現に貢献できるはずです。

働くことをエンジョイできれば、集中力も高まります。長い時間働いてもそれほどのストレスにはなりません。働くと游ぶが同質になるからです。集中することで、それまで見えなかったものが見えるという新しい発見があります。そうして次第に俯瞰性も高まり、抽象思考が可能になります。抽象思考は脳の若さのバロメーターです。クリエイティブな能力もこのような脳の活性化によっておこるということなのです。「日々工夫」の習慣はやがて「創意工夫」(それまでにない新しいアイデアによる創造)も可能となるのです。このような生活が退屈なわけないし、苦しいわけがありません。最近では健康においてもストレスの作用は大きな要因になることが解ってきました。明日の自分を創るのは、今日の自分なのですから、今日を充実して、はじめて明日の充実が可能であることを考えると、今のひとときをただ何となく費やしてしまっているなら、「日々工夫」を思い出してみるのも決して悪くないことではないでしょう。実践してみてはいかがでしょうか。

「快三昧に生きる」【17】

→「快三昧に生きる」【19】

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