『快三昧に生きる』 【16】

2020.9.21

出る杭は打たれる⇒出過ぎた杭は打たれない

「死にたい」と言う中高生たちについて触れました。
そこには、日本独特の集団主義、単一民族国家の国民性、という問題が浮上してきます。

出る杭はうたれる(横並び精神)。和をもって貴しとなす(調和が一番大切)。藪をつついて蛇を出す(余計なことはするな)。郷に入っては郷に従え(同調しなさい)。長い物には巻かれろ(先輩に従え)。付和雷同、唯々諾々(意見を持たない)。など同調、迎合の圧力を表す言葉が多く存在する日本。
「日本人の自己は、個として確立しておらず、自分が属する内集団と一体化している」と言われています。結果的に「周りと違う行動や発言をして、変に思われるのが怖い」という心理を生んでしまうのです。

このような社会(ムラ)参加で、これまでは問題なくまとまっていたように見えていましたが、インターネット社会というパラレルな社会の出現によって、内包されていた圧力への不満を簡単に話す場が得られるようになった事、またムラの中で産まれた子供たちも、情報を自由に得られる状況を得て、小さな社会(ムラ)に閉じ込められて生きるしか方法がなかった時代から解放されるようになりました。

そんな若者たちが今、傘(安全な集団)を捨てたことで、「お金、モノ」という餌にも食いつかなくなってきたと言えるのです。

とは言うものの、農耕民族、島国といった特徴をもつ日本では、未だにムラ社会の排他的風潮は地域社会に限らず存続しています。有力者を中心に古いしきたりを武器にして従わせたり、集団内での掟、ルール、価値観で縛り、そこから外れたものは村八分という制裁を加えられるという同調圧力です。

そのため、外国人就労者にも、そのような扱いをしてしまっているようです。
スペインから1年間の就労ビザで入国している女性が「ソーシャルプレッシャー」と言って悩みを話してくれたことがあります。

人は理解できないものに対しては脅威を感じ排除しようとするので、同調圧力が生まれます。
外国人はそんな日本文化を知らずに入国し、強固な集団主義に同調できません。そんな外国人にイラつき、更に理解できなくなることで、古いタイプの日本人による排除が始まります。

長い間、日本は海外からの移民を遠ざけ、閉鎖的単一民族の形を守ってきたことによる、グローバル視点、多様化(ダイバーシティー)視点の欠如という欠陥を担ってしまったと言えます。もちろん日本人は綺麗好きで、礼儀を重んじ、社会的強調意識が強いことで、社会的清浄化が守られています。
しかしながらそれは幼い頃から叩き込まれたもので、一朝一夕で身についたものではありません。昨日今日来たばかりの外国人に同じ行動を期待しても、簡単にはいきません。

そういった個々の外国人へのハラスメント的行為ではなく、社会的解決策を考えるべきなのです。
日本の少子高齢化社会に外国人は必要ないのか?経済政策にインバウンドは必要ないのか?そういった視点から解決策を導き出すことが大切です。
時には「国に帰れ!」などの暴言も聞かれるようですが、現在の日本の状況、世界の状況から、排他的だけではいられない事情を認識すべきです。

生命のシステムすら、閉鎖系では維持できません。いわんや世界中が閉鎖系では生きていかれない、と言うのが自然のシステムです。どんな小さな国もグローバル化を勧め、日本においても、グローバル化に舵を取って久しい状況です。

日本では1960年代には主に欧米諸国への進出は始まっていました。しかし、1964年まで海外旅行も自由に行えず、1971年まで固定相場制(1ドル360円の固定相場)など、世界でビジネスを展開するには厳しい状況にあったといえます。

1973年には完全変動相場制に移行し、それ以降波は円高に推移、海外との交流も増えていきました。日本では、1980年代にようやく「国際化」という概念が一般に広まったのです。その後は、当初から世界規模に展開させるグローバル化につながります。

グローバリゼーション

これに伴い、「グローバル観光戦略」の展開(平成14年~)が始まり、急激に外国人観光客が増え、例えば2017年の訪日外国人観光客は累計2,869万人となっています。
ところが同時期の日本人の20代および30代の総人口は2,600万人ほどにすぎません。
また、少子高齢化によって人口が減少に転じている日本において、仮に人口が1人減ったとしても、訪日外国人が8人訪れればその経済的な損失を埋められるともいわれています。

このように世界の中でも高齢化社会の先頭を走り、人口減少問題が顕在化している日本の経済や産業にとって、多くの外国人が日本を訪れるインバウンド対策は無視できないものになっているのです。

 インバウンド対策

このような日本の事情からも伺えるように、少子高齢化がもたらす様々な問題の解決に、デジタル化と国際化・グローバル化は必須対策で、今後はますます強化されることになるでしょう。過去の存在である私たち旧人類の心の壁を突破らって、未来の存在者たちに道を譲るべきではないか、それが自然の摂理なのではないか、とそのように想うのです。

旧人類の壁を取っ払うことは容易ではありません。ですが資源のない、少子化が進む、産業技術においても遅れをとっている日本が、世界で生き残り、一片の希望である「精神先進国」としてリーダーシップをとるための学習であることを認識する必要に迫られています。

 

空気は隠蔽される

空気とは思考停止を強いる何か。暗黙のルール。
この暗黙のルールは、暗黙である必要があるほど不条理、理不尽、非合理的、矛盾を包有している、そのために隠蔽されるのです。公開などできようはずがありません。なぜなら整合性をもって説明することができないからです。暗黙なので実在の証拠もありません。
姿は見えないのに強力な毒を放つ、正しく妖怪のような存在です。

『空気の研究』の著者 山本七平氏は、「空気」は妖怪といっていました。
そして、その中で改革は絶対と言っていいほど、実現不可能、潰されます。
なぜなら「空気」に、日本人は簡単に殺られてしまうからです。

「空気」を容認する限り、この国の進化はないでしょう。そしてやがて日本人は世界の隅っこに追いやられ、もしかしたら中国の属国化するかもしれません。

問うべき質問を問わない!そこには多数派圧力が働いているから・・・
いつも多数派が正しいとは限らない。そう考える思考力を奪われては、人間としての特権を放棄することにはならないでしょうか?

かくいう私も、「死」を考えるようになったこの齢になって、初めて自分の本心を吐露し、公開に踏み切った次第です。情けない限りです。

ママ友たちの集まりや、女子会、その他の集まりでも「空気」が未だに重視されているようです。自分でも気づかないうちに空気を読んで、同調圧力に屈し、多数派になって圧力をかける側にいることはないでしょうか?
多様性を求められている現代において、少数派の意見を封殺することは、多様性を否定し、問題の改善や改革の芽を摘むことになります。

「空気」とは
日本人は至る所で最終的な意思決定者を「」ではなく「空気」だと言っているのです。
この「空気」のせいで、日本は歴史上何度も悲惨な目にあってきました。そして、その最も代表的な例は戦艦大和の出撃だと思います。

ご存知の通り、日本一有名であろう戦艦大和は戦争で撃沈されてしまうのですが、その時の出撃も「空気」で決まったんです!

大和が撃沈された第二次世界大戦時、日本はありとあらゆる資材を投げうってでも戦争に勝利しようとしていました。

後に行われる神風特攻などはその典型でしょう。未来のある若者に死を前提とした自爆攻撃をさせてでも、当時のわが国は戦争に勝利しようとしたのです。とにかく、戦争に勝てるのであればどんな手段でも厭わない、それが当時の日本の「空気」だったわけです。

そして話は戦艦大和に戻ります。当時の軍令部長・小沢治三郎中将のこんな発言の記録が残っています。

全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う。

要約すれば、「空気的に大和出撃させるしかないっしょ!」というノリですね。

戦争が進み、物量の差やそこから生まれる戦略の差を感じ取った当時の有識者からは、敗戦が濃厚な戦に戦艦大和を出撃させるべきではないというデータが提示されたに違いありません。

しかし、出撃賛成派はそんな意見は一切無視して出撃の判断を取ったのです!

そう、国の存亡がかかった状況においても、日本人はデータや数値よりも「空気」を取るようです。そんな曖昧なものに国の命運を預けていたというのは驚きですね。
「空気」って何?

では、これほどに強い力を持った「空気」とは一体何なのでしょうか。

結論から書いてしまえば、対象への分析を拒否する心的態度、と言えるでしょう。

これだけだとどういう意味かわかりにくいかもしれませんが、要は対象に感情移入したり盲目的に信仰することで、それが実際にできるかどうかを理性的に考えることができなくなっている状態です。

例えば、仏像をただの鉄の塊だなんて仏教徒の前で言えば怒られるでしょう。仏教徒が怒った理由は、仏教徒はその鉄の塊が人間を救うものだと信仰しているからです。

このように、日本人は一度それが正しいと思いこむと、物事を対比的に考えることができなくなり、特定の対象を過剰信仰するという状況に陥りやすいのです。

この背景として日本が多神教国家であることが挙げられますが、その話は長くなるのでまたの機会にしましょう。

このように、日本人の「空気を読む」という行為は、美徳であると同時に日本人の弱点でもあるんですね。

日本人が弱点を克服するには

では、このような日本人の弱点ともいえるところはどのようにして克服するべきなのでしょうか。それは、「水を差す」ことです。

第二次世界大戦では、日本の負けは濃厚でした。故に、負け戦に資材や国民の命をつぎ込まないように戦争を止めようとした人こそ、英雄と呼ばれるべきです。そうした英雄たちは、勇敢にも当時の戦争イケイケな空気に「水を差した」人なわけです。

つまり、空気を読まずに事実を突きつけること。更に言えば、事実を伝えることで別の空気を作り上げて対抗すること、これこそが「空気を読む」日本人の弱点を克服する道だと言えるでしょう。

自分と相手がどのような考え方に傾倒しているのかを客観的に考え、一つの空気だけを良しとするのではなく、空気を「相対化」する能力こそが今の日本人に求められているのかもしれませんね。

いろんな考え方があることを理解し、「空気」を絶対に正しいものだとせず、違うと思ったら適度に「水を差す」ことを心がけて、今日も一日元気にやっていきましょう!

 日本人が読む「空気」って何?

残念なことに2020年9月6日現在、未だに「空気」で一国の総理大臣が任命されています。
新総理は「悪しき慣例を正す」と言っています。
悪しき慣例に従って総理の座を得た菅首相自身が、「空気」システムを「悪しき慣例」と認識していないということでしょう。また、マスコミもそれに同調し、「空気」を後押しした報道ばかりでした。
「空気」システムとはそういうものです。私たちは余程肝に銘じてかからなければ改めることができない妖怪システムなのです。

KY「空気読め」

同調圧力の発現の仕方の一つとして、KYがあります。KYは、「空気が読めない」もしくは「空気読め」を略した言葉です。ここでいう「空気」とは、同調すべきその場の雰囲気や暗黙の了解のことです。

特定のグループでその場にいるメンバーが共通して持っているルールが存在する場合、そのルールに合わない行動を取る人を非難する言葉が「KY」です。

同調圧力から作られるルールの中でも連帯責任というルールは所属するモノにとっても魅力的なルールです。個人の責任は全員の責任に拡散されるため、個人が負う責任が軽くなりがちです。自分が多少ルールを逸脱しても、他の誰かがフォローしてくれます。逆に、他人のミスは自分がフォローします。

連帯責任に縛られたグループにおいては、各個人の責任感は薄められ、結果としてグループ全体の規範が緩んできます。
そのため、連帯責任は無責任とも言われます。

同調圧力は健全な社会の発展の障害になります

同調圧力が通常の状態になると、それぞれのグループ、さらには社会が健全に発展していくことができなくなります。

なぜなら、改善や改革につながる新しい視点が同調圧力によって否定され、発展のきっかけが失われてしまうためです。

同調圧力がある状況で採用される意見は、そのグループの人たちの理解や判断レベルの標準よりも低いレベルに合わせられることになります。

そうでないと、採用する人間の多数が理解できないためです。同調圧力の影響を受けて意見を採用するグループは、あるレベル以上の意見を出すことができなくなります。

同調圧力をかける人間は人望を失いやすく、同調圧力に従う人間は自分自身で考えないため思考力が低下しやすくなり、結果として、時代に取り残されていく可能性があります。
鈴木博毅:ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表

『「超」入門 空気の研究』『「空気」の研究』

自分の基準は?

集団主義者は、どのような集団に属しているかで自己を定義し、個人よりも集団に価値を置き、集団内のルールや掟に無条件で従うこと。国家や企業、地域社会、その他の組織がそれにあたります。
人間関係主義者は、誰とつながっているのか、誰と親しいか、どのような人間関係の網の中にいるか、で自己を定義します。縁故、血族、知友、師弟関係など。繋がっていることで得られる価値を優先します。
個人(自由)主義者は自分の能力や実績、何をしているかで自己を定義します。また、金、目先の快楽、地位や権力などに縛られず自由に過ごすことを第一に考えます。

やるべきことはなるべく減らし、やらなければならないより、やりたいことを優先し実現することに集中します。

集団主義及び人間関係主義は、「依存型」とも言えます。集団あるいは人間関係で、自己の価値にラベル付けする代わりに、自己主張を後退させます。掟やルール、忖度、空気に敏感である必要がありますが、多くの場合責任は分散されることがあります。
集団(群れ)の中に埋没することで得られる安心感は、自分がグループに守られているという考えによるものです。また群れの中や、人間関係を優先することで「承認欲求」が充たされ、自己肯定感も高まります。特に社会的認知度や階層の高い友人、知人との関係は、繋がっているというだけで、自信につながるでしょう。

但し、忖度や空気の読み間違いで、いじめを生む可能性があります。いじめとは、グループ内に存在する「暗黙の了解」に従わない者に対して行われるグループ現象であり、これこそ同調圧力の結果そのものです。

「連帯感」や「所属感」のように、得られるものがある代わりに、ストレスも産みやすいということです。

日本はムラ社会であり、ムラには独自の善悪の基準があります。産業や共同体ごとに独自の論理があり、それぞれに「独自の物の見方」があるのです。

政治家の善と国民の善は同じではないかもしれません。特定の利権産業団体の善が、市民にとって悪であることもあります。

山本七平氏は、日本人はどのムラに所属するかで善悪の基準がコロコロ変わる「情況倫理」に陥ると指摘しています。
情況倫理が働く日本社会では、集団の物の見方で行為への評価が違ってしまうのです。

山本氏の文章から、「空気」と「情況」を次のように定義しています。

「空気」=ある種の前提
「情況」=前提を起点にして形成された、集団の物の見方

「空気」は公にできない秘密の前提であることが多いことです。

大きな共同体の中で、ごく特定のムラだけに都合のいい前提など、公表できるわけがありません。特定のムラと共同体全体で、大きく乖離している前提を正当化しようとすれば、全体側から激烈な怒りが生まれるからです。

だからこそ、空気は隠蔽され、物の見方(情況)だけが外に出てくるのです。

「空気」と「情況」

一方個人(自由)主義では、あくまでも自己思考を優先し、それに基づいて自己判断、自己選択し、自己の能力や、実績だけで自由に人生を歩むことを優先します。もちろんすべて自己責任です。

日本人は「責任を取る」ということを回避したがります。そのことが日本人の大多数を集団主義者にしているのかもしれません。

このタイプの人は、追求型学習で自己の世界を拡張することに専念しているように思われます。

コロナ禍は、追求型学習にも一役買っています。ソーシャルディスタンスで、人との交わりを否応なしに減少させられ、おうち時間を持て余すうちに「追求学習」が始まっているのです。このまま進めば自然発生的にパラダイムシフトが起き、いつの間にか大きな文化改革が成されていた、ということになりそうです。そして若者たちはそんな時代の中で自己世界を広げながら、その時代を満喫して生きることでしょう。それこそが極楽浄土なのではないでしょうか?

日本でそれが実を結べば、世界中の精神先進国として、世界の最先端を歩き、各国からロールモデル教育のオファーが来るかもしれません。

国が動かないであろう、北朝鮮や中国のような独裁国家はどうなるでしょうか?

今でも、中国のIT企業は、中国政府の国民総監視制度を成し遂げ、世界市民総監視化を目標とした覇権陰謀の影響を受け、世界的市場を制限されつつあります。
どの国に住もうと、人間の尊厳を失わず、自由で幸福な暮らしをしたいと言う人間の欲求には変わりありません。
それを犯す体制に、各国の底辺に位置する人たちは、これからますます敏感にならざるを得ない状況ができることは、周知の事実でしょう。

中国政府は既にそれを危惧して、ITに制限をかけているようですが、いつまでもIT鎖国できるはずはありません。このように世界が大転換する時代に生きているということは、私たち現代人にとって歴史上、変え難い幸運な時期を体験していると言えるのです。

一大転換期(パラダイムシフト)の歴史

パラダイムシフト後の社会においては旧価値観と新価値観のぶつかり合いが往々にして起こります。第一のパラダイムシフト、江戸幕府成立後においては「江戸幕府」vs「旧豊臣勢力」の激突。第二のパラダイムシフト、明治維新後においては「秋月の乱」「神風連の乱」「西南戦争」という形で「明治政府」vs「旧幕府側」のイザコザが起こりました。しかし、第三のパラダイムシフトの「自由民主主義社会」の導入時においては不思議なことに大きな混乱が無かったように俺には理解できます。第四のパラダイムシフト期の現在は「成長しか知らない団塊世代」vs「成長を知らない団塊ジュニアゆとり教育連合」という新たな混乱期だと思われます。
今後、社会の主力になっていく1980年代中盤以降に生まれた人間の心に刻まれつつある「失われた20年がもたらした社会に対するニヒリズム」。それがどのような社会を作っていくのかはよくわかりません。しかし日本民族は第三のパラダイムシフトの後、混乱もなく現在の素晴らしい日本社会を作り上げたのですから、これから迎える第四のパラダイムシフト後もきっと良い社会を作り出すと信じたい。「ゆとり教育」「草食系」と揶揄される彼らこそが新たな明るい未来を作り上げてくれると思います。後世畏るべし!

蟻の社会学

私たちはこの機に乗じて「突き抜けるほど出る杭」になれば、打たれにくくなるのではないでしょうか。

←「快三昧に生きる」【15】

→「快三昧に生きる」【17】

 

この記事をシェア:

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です