『快三昧に生きる』 【13】

2020.8.31

「怒り」をコントロールすること、「我慢」を溜め込まない、そのことでストレスの多くを解決できることを示してきました。

そのような行動を自動的に行うのが、無意識にインプットされている「観念形態」です。その視点(観点)が発動するまでは、ついつい旧態の癖に扇動され、我慢とか怒りとかが自動的に湧出します。

急がず、ゆっくり、ゆっくり、何度も先にお伝えした、「百人百様の観点があること」を思い出し、相手を観察したり、自分の観点に思いを巡らしながら、無意識に染み込ませて行くつもりで、認識化を進めてください。

精神世界に興味を持つ方々が、突然の神秘体験を期待したり、何かが観えたとか、超常体験を自慢気に話す方に遭遇することがありますが、真の人間進化は、「認識の変化」に在ると思います。

「認識」が変わると「世界」は変わります。

本著の始めに「統覚」のお話をしましたが、一部の認識の変化が、他の既知認識にも影響を与え、統合的認識「統覚」に変化を及ぼします。脳内のネットワークは繋がっているため、部分の変化がネットワーク全体に影響することは当然の事です。但し、善悪、正違、といった道徳やルール、制度、常識、慣習と言った人間の策(ソーシャルプレッシャー、社会的圧力)だけに従って生きてきた人は、その観念体系ネットワークの自由度が少なく、どこかでショートしたり、切れたりすることがあるかもしれません。「何が正しいのか?」と、一つの答えに頼る限り、前には進みません。答えは一つではないことを知ってください。人により、環境により、文化により、慣習により、答えは無数に創造されるものです。そして、自分にとっての「正しい」が「譲れないモノ」になります。けれどもそれが他者の「正しい」になることは極々稀であることを認識しなければなりません。そうなると当然自分の「正しさ」を他者に押し付けることなどできようはずはありません。他者に迷惑にならない程度に自分の「譲れないモノ」を維持してゆくには、それなりの工夫が必要ですし、それなりの面倒な配慮も必要です。そうしてでも「譲れないモノ」こそ、本当に自分にとって大切なモノになります。
その譲れない大切なモノを中心軸にすることで、統覚的に確信を創造できるようになります。そして、不安から解放され、揺るぎない確固たるレールの上を堂々と歩む姿勢も整い、そこから独自の創造性は自然発生的に生まれるでしょう。

自分の中で「譲れないモノ」それを見つけたら先が観えます。どんな仕事も自分が導く限りでは愈快ですが、服従する限りでは不愉快になることは間違いありません。自分の持って入る「答え」と他者の答えが一致することは少ないからです。

他者の策(制度やルール)だけを支えにしていると、自分自身の思考、感情、感性は鈍くなり、一体自分はどうしたいのかさえ分からなくなってしまいます。つまり自分の人生なのに、その人生を何か(誰か)に預けてしまい、自分ではない人生を歩む結果になります。そうなると、幸福度、満足度ということは期待できないでしょう。いのちがあるから、安全圏で生きている、ということです。勿論それも生き方の一つですから、否定はしません。それほど幸福感を感じられなくても、どこかの傘の下(他者の策の下)で安全であればその方がよいと言う人も当然あっていいと思います。要はその生き方が好きか嫌いかだけです。それぞれが好きな生き方を選択すればいいだけです。安全が好きか、自由が好きか、単純です。また、好き嫌いだけで選択できるものではない、と言う考えも一つの答えです。それに従うのも自由。という立場に立っていることは、私にとってすこぶる快適、この上なく争う原因、怒る原因から解放されています。

筆を走らせながら、ミヒャエル・エンデの著書の中に『ミスライムのカタポンぺ』(『自由の牢獄』短編集の中の一つ)という物語あったことを思い出しました。

“悟りは突然訪れ、疑う余地はなかった”・・・から始まるこの物語。題名そのものが非常に象徴的です。

「ミスライム」とは、流刑の地であり、エジプトをいい(旧約聖書のイスラエルの民にとっての)、大河に象徴される、時が流れる国、つまり‟この世”のこと。と、エンデ氏が語ったことが訳者あとがきにあります。
そして「カタコンペ」とは“洞窟墓”を意味しています。

洞窟墓のような石壁の窪みがカプセルホテルのように連なる広大な洞窟。そこに住む影の民は出口のない洞窟で目覚めては、頭の中に響く「声」に従って洞窟内で無意味な労働を繰り返し、配給される食糧で暮らしています。彼らは与えられたGULを食べることで、目覚めるたびにそれ以前のことは消え去ります。思考も感情も停止状態にされ、疑問を持ったり、創造したりする能力が削がれます。ただ「声」に従って動きながら、洞窟の中で一生が始まり、また終わります。
だから外の世界を創造することすら知りません。

 冒頭の“悟りは突然訪れ、”は主人公に起こったこと。
彼は夢に見た外の世界を洞窟の壁に描こうとします。
「声」はそんな主人公を追放し、寝所は他の影に使われ・・・

夢の通り外に通じる出口を求めて洞窟の中をさまよううちに、主人公は影たちを支配する「声」に反対するグループを名乗る一派に会い「声」は自らの権力欲を満たすために影たちをそうとは知らせず奴隷としていると聞く。
創造という特殊な能力を見込まれて「影たちを解放するために必要な」キノコの栽培・管理を任されます。
仲間を奴隷から救おうと必死にキノコの世話をする主人公。ところがある日、温室の片隅でぼろぼろになった老人の影を見つけ反対派のグループも「声」とグルであり、影たちを解放する気はなく影たちに考えることを止めさせるために支給される食料に仕込まれる麻薬(GUL)の原料であるキノコを主人公に栽培させていたのだと主人公の前任者を名乗る老人に教えられる。
主人公が他の影と違い、忘れなかったり考えたり、外を夢見るのはキノコの麻薬の効果に耐性があるためであり、声の一派はその影響を恐れているはずだと。
主人公はキノコの温室をすべて破壊し、他の影を扇動し「声」への反乱を促します。

ミスライムの大支配者ベヒモートは、暴徒に向かってこういいます。

「もう一度言おう。そのような世界にはおまえたちは住めない。
だからこそ、影の民はその昔、外の世界からここの地下へ逃げて来て、あの耐えられない光から逃れるための救いをわしらに求めたのだ。
おまえたちを一時たりとも囚人にしたことはない。
おまえたち自身の意志なのだ、わしらが従ったのは、おまえたちが仕えたのではない。わしらがおまえたちに仕えたのだ。
おまえたちとともに、おまえたちのために、わしらはこのミスライムのカタコンベ世界を築き上げたのだ。
おまえたちにとってできるだけ安楽にしたつもりだ。
それなのにおまえたちはすべてを壊すというのか。
おまえたちとは異なる、この男一人のために。もっとよく考えるのだ!
今ならまだ遅くない。おまえたちさえその気なら、ただちに復興に着手できる。
みんな元どおりにできるんだ。さあ決めるがよい!
この男とともに脱出し、そこで滅びるのか。
追放して、この男を処理し、われわれの世界が受けた深い傷が再び閉じ、治癒できるようにするのか」

自由の牢獄

「声」がいうには影たちはかつて外から逃げて、一切の決定を「声」にまかせ
自由を放棄することで安楽を手に入れることを望んだという。
主人公にももはや、外の世界が本当に現状より素晴らしいものなのか確信できなくなりました。

さらに主人公が奴隷であることの苦しみを和らげてくれていたはずの麻薬の製造を妨害し、本来感じるはずのなかった苦痛をみんなに与えたと知ると、他の影たちは主人公を見捨て、影たちはまぶしい光があふれる外へと主人公を無言で突き出した。
外へ突き出されたとき、主人公の絶叫が洞窟中に響き渡り、そして出口は閉じられた。ただし、主人公のあげた叫びが歓喜によるのか絶望によるものか、だれも断言できなかった。

主人公がどうなったのか、エンデは書いていませんし、作中からそれを確実に推測させる描写もありません。ぶつぶつ愚痴を言いながらも、大きなシステムの一部として安全に機能するのが幸せなのか、それとも真実の自分を軸に、物事を一つ一つ選択し、自ら解決の糸口を見つけるのが幸せなのか・・・・・・ミスライムのカタコンベには答えがありません。答えが無いというのが、答えです。

この物語りの主人公の持つGULへの耐性は、まさしく現実社会の権威と同調圧力への対抗力だ!と痛感し、大きな共感を得たことを憶えています。

この物語に登場する主人公の名前をはじめとして、他の人物の名前や、呼称の多くに、深い意味合いがあることを後になって知りました。例えば麻薬GULは、ヘブライ語で物質を意味するものとされています。(その他旧約聖書、ローマ帝国、エジプト、夢等々に関連付けられた)

エンデの作品の多くは、そういった現実(物質世界)と彼岸の関係などをテーマにした作品が多く、仏教的思想概念を感じさせられます。

また、映画「マトリックス」を彷彿されるものがありました。
自由(知性、英知、選択、決定)と、依存(隷属、思考停止、忖度、おまかせ)のどちらを選ぶかは唯一個々に委ねられています。

 もしも、真実の自分に従いたいのなら“決して譲れないもの”を見つける事です。
影の民には“譲れないもの”はありません。「声」に従い、「声」の奴隷になっていることで安心しています。いえ、自分たちが奴隷になっていることすら気づいていません。まるで現代社会の陰に潜む問題を露わにした物語でした。

さて、現代日本の状況を顧みることにします。
“若者たちから見える日本の状況”と題して「池上彰のニュース」で、「若者の○○離れについての報道がありましたが、

○○離れ」に注目する価値とは【時代の流れが見える】
調査からお伝えします。

この調査から、現代の若者たちの物質離れが垣間見えます。その理由として、「誰かに依って幸せを得る」から「自分で幸せを創造する」に変化しているのではないかという印象がありました。

オンライン総合旅行サービスの「DeNAトラベル」が2018年に公表した「離れ」調査の結果は以下の通りです。

1位「車離れ」33.0%
2位「新聞離れ」13.2%
3位「読書離れ」7.9%
3位「結婚離れ」7.9%
5位「お酒離れ」6.6%
6位「テレビ離れ」4.9%
7位「タバコ離れ」4.6%
8位「恋愛離れ」3.3%
9位「旅行離れ」2.8%
10位「選挙離れ」2.2%

1位は「車離れ」2位「新聞離れ」と3位「読書離れ」は、「活字離れ」「難しさ離れ」「有料離れ」の3つの要素が含まれていると考えることができますが、新聞と読書という2つの「離れ」を合わせると20%を超え、こちらもかなり有力です。

「恋愛離れ」と「結婚離れ」から見えるもの
エアトリのランキングでは、「恋愛離れ」が男女総合5位、女性3位であり、DeNAのランキングでも、「結婚離れ」3位、「恋愛離れ」8位でした。

これらの調査結果をはじめ、出生率の低下や晩婚化、セックスレス化やお一人様の流行などからも、「男女がくっつくこと」に「離れ」が生じていることがわかります。

このトレンドは最早避けられず、「くっつかない男女」という常識が構築されるかもしれません。旅行や食事、エンタメや住宅などの分野では、「くっつく男女」向けマーケティングと「くっつかない男女」向けマーケティングは、全く異なります。

「活字離れ・難しさ離れ・有料離れ」から見えるもの
DeNAランキングの2位「新聞離れ」と3位「読書離れ」を「活字離れ・難しさ離れ・有料離れ」と、ひとくくりにしてみました。その意図は、次のとおりです。

  • 新聞も読書(書籍)も活字がメインの媒体
  • 新聞も読書(書籍)も硬派な内容や難解な内容を扱うことが多い
  • 新聞も読書(書籍)も有料

「車離れ」「テレビ離れ」「旅行離れ」から見えてくるもの
DeNAランキングから、従来、不動の人気を誇っていた車(1位)、テレビ(6位)、旅行(9位)に「離れ」傾向が出ていることがわかりました。

この3つの「離れ」から、消費者が従来の価値観からの離脱したがっている気持ちが透けてみえます。かつて車は、憧れの消費財であり、車を持っていることが成功の証だった時代もあります。
しかし、最近の車には、それほどの輝きはありません。シェアエコノミーの急伸で、車も「借りればよい」モノになっています。

また、テレビに「離れ」傾向が出るのは、意外に感じるマーケターが多いと思いますが、2019年は、ユーチューブが突如フィーチャーされるようになり、有名人や著名人がこぞってユーチューバー・デビューを果たしました。

つまり、消費者は変わらず動画を求めていて、エンタメ業界や表現者たちは、動画での情報発信に力を入れています。
動画の魅力が高まっているにもかかわらず、テレビ人気が落ちているのは皮肉です。

そして、多くの人の憧れだったはずの「旅行」も「離れ」が起きています。

(DeNAトラベル)

<参考>
33%の人が「若者の車離れ」を実感! 車離れが進む理由は「収入の減少」と「時代の変化」

@press

“平成の〇〇離れ”、1位は「“タバコ”離れ」、2位「新聞」、3位「ギャンブル」

(エアトリ)

こうした「若者の○○離れ」は、日常と非日常を分離する生活から、「ワークアズライフ」的生活様式への移行過程と言えるのかもしれないと感じています。

「幸せ」の形が、外見ではなく中身になり、他人から「羨ましがられたい」という感覚が薄れてきつつあるのかもしれません。「形を整える」から「リア充」を求める傾向なのではないでしょうか。『ミスライムのカタコンペ』の主人公のように、物質やカッコよさという麻薬への耐性が若者たちにはできているのかもしれません。頼もしい限りです。

「快三昧に生きる」【12】

→「快三昧に生きる」【14】

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