『快三昧に生きる』【3】

2020.6.26.

引かれたレールを走るトロッコに例えた、観念という思いこみが、自分の現実を創造していることをお話ししました。

「慣性の法則」も同じように動いている物体は、トロッコと同じようにそのまま走り続けるしかありませんが、ハンドルや、ブレーキの装置のような、何らかの大きな力を意識的に加えて、方向を変えたり、あるいは止めることは可能です。

新たなレールを敷いておいて、ハンドルを強くそちらへ切る、ことが可能と言えますが、曲がる角度が大きすぎたり、急ブレーキでは脱線しかねません。
そうならないように小さな角度で、何回も方向転換することを考えた方が無難です。

本書の目的は、現実の自分にとって「これは自分の人生には要らない」そして「こんな未来を創造できれば」という方向に舵を取って、そこへ向かってまっしぐらに進むためのアシスト役となることにあります。

先ず第1に、それらを明確にすることから始まります。

ここで、どうしてもお断りしなければならないことがあります。

本書で提案、紹介する内容については、私の経験上の結論です。そのため、これを正しい回答と受け止めることは控えてください。あくまでも、このような考え方、方法が快三昧を実現できた、という紹介にすぎません。

あなたにとっての「快三昧」の一つの参考として、お読みいただき、疑問があれば、その疑問を無視せず、むしろその疑問に向かってあなた自身が解明してゆくことをお勧めします。それがあなたの新しいレールとなるはずです。

私自身の道程も「楽しく生きたい」が最初の動機でした。その道を探求する中で「即身成仏」(今のままで仏ですよ)「蜜厳浄土」(この世が極楽ですよ)という言葉に出会い、その宗門に入りました。その宗門の人たちはみな、そんな極楽生活をしていると思い込んでしまっていたのです。その宗門に限らず仏門という世界自体、僧侶自体にそんなイメージを抱いていました。

ところが、入ってみると、そんな考えは甘い、と非難されるばかりでした。

先輩方はみな「苦」を肯定し「苦」と戦う強い自己を養う修行へ向かっている方々ばかりでした。

他者の救済には苦行こそが必須条件という常識だからです。
「僧は他者の救済が義務であり役目である」という常識も、私には全くフィットせず、そこを目標にはできませんでした。

私が求めているものとは相当異なる道でしたが、その違和感を無視し、更に学び、行ずることを選択し続けていました。そうする必要があるのだろうと思い込んでいたからです。

何年経ってもモヤモヤは消えず、納得できない日々が続く中、ある山奥の銀杏に魅せられ、その銀杏と一体になる瞑想に没頭するようになりました。

銀杏との心地良い一体感を味わう瞑想三昧を続けるうちに、深層意識から湧き上がるように、まず「意識が現実を創る」そして「全ては一つ」という言葉が出てきました。と同時に(私はこの世を苦の娑婆と思いたくないから、僧になることを選択したんだ)ということに気づいたのです。

「この山へ登る入口(登山道)が違う」そう気づいた後からは、次々とこれまでの仏教的用語とは異質の、しかし、上記の二つの核心を突くような言葉、また私自身に一番フィットする概念が、泉のように湧き続けるのです。貪るようにその言葉をメモし、解釈や、裏付けとなる科学的知識を、来る日も来る日も調べ続け、遂に仏教の真理「縁起」とシンクロし、「即身成仏」「蜜厳浄土」という頂上に到着しました。

そこは「色即是空・空即是色」も納得できる場所だったのです。
そして、正に極楽浄土と言えるような、心地よい空間の中に居ました。

それ以前のため息は「そうだったのか」の独り言に変わり、目の前はどんどん明るく広がり、空気が美味しくなって行く感覚を味わいながら、嬉しくて飛び跳ねるような日々が続きました。この4年間の瞑想時代は、人生の最大の収穫の時期となりました。

僧になって他者を救済することを目的とはしなかった私は、やっと自分自身が喜び、生まれてきたことを心から感謝できる日々の暮らしを手にすることができたのです。これは束の間の幸せとは全く異なる、恒久的な幸福感でした。

このことによって、自分を救うのは神でも仏でも高僧でもなく、やはり自分自身しかない、そのことを確信した時期でもありました。今もその考えに全く変わりありません。

私にとっては、自己の深層にコミットし、本来の可能性を開くことが一番確実な道だったのですが、それとは別の、神仏を信じ、崇め、教祖を奉り隷従する、信仰の道を否定するものではありません。何かを一心に信じることで、安心を得るということも、間違ったことでないことを知っています。

人の「信じる」という情動は、重要な役割を果たします。「観念」の構築過程においても、「信じる」という情動の後押しがない限り、「観念」は成立せず、そこには確信的で強固な思いが裏付けられます。

そうでなくても、「信じたい」欲求は、本能的と言えるでしょう。一寸先が闇で、確信できる安全がなければ、一歩も足を踏み出せない。信じるに値する情報や人を求めるのは自然なことです。

脳はそのために、早く答えを欲しがります。その答えが出ないと行動できないからです。

狩猟民族が初めて出会う獲物に対して、何が危険で、何が弱点かを把握しなければ動きようがありません。多分それまでの知識を総動員して、どのカテゴリーが応用できるか、脳をフル回転するでしょう。

「信じる」という処方箋(脳の引き出し)は「生きる」のレールになっていると言えます。

神格化したキリストや、釈迦を超人視して、崇め奉る信仰の道と、もしくは、彼らの示す「処方箋」の構造を紐解き、処方された薬の中身を解明し、毒を産むシステムを断ち、解毒薬の自己生産の可能性を試みるという、処方箋の応用の道と、どちらも選択する価値はあるでしょう。それぞれが好きな道、自分に合った道を選べばよいと思います。

同様に、共産主義という所有を捨てた思想や、資本主義という利益優先の思想、また独裁主義という一人のカリスマにすべてを託し、それに隷従する。そのどれも選択自由です。但し、どの環境に生まれたかで、その影響下に縛られる可能性はあります。しかしながら、一昔前とは違って、IT環境の発達した現在では、余程の統制がない限り、世界全体が観えるようになっています。観えた実態から選択を変えることは不可能ではなく、自己の想いの強さに依るところでしょう。

そういった選択の自由が、現在の世界を形成し、相互の内政への介入をタブーとしながら、人間世界は現在に至っています。表向きにはそれぞれの国々は問題ないように見せているものの、内実は多くの問題を抱えた国が多いのも事実です。

こんな風に、高い山の上から鳥の目で世界の国々や自分を観ると、国と言えども個人の延長に過ぎないことが観えてきて、まるでグーグルアースを観ているのと同じように、大変興味深く面白い試行です。

このように、レールを引き直し、マイノリティーな道へ急ハンドルを切った要因は、私自身の弱点、苦痛に耐える忍耐力の無さ、「我慢が嫌い」という性格にあります。その欠点が功を呈し、自分流の道の発見に至ったのでしょう。欠点もまんざら負の作用ばかりではありません。何事も投げ出さず、落ち込まず、自己の信じる道を突進してみるものです。

その後は欠点を逆手にとって「我慢大敵」という言葉を板書きして庵の大黒柱に吊るしていました。現在でも「我慢大敵」は私の核の一部になっています。
なぜなら、体験上、心労や我慢こそが心身の健康を損なう毒と信じてしまったからです。

また、最近アメリカの大統領選が取り沙汰されていますが、トランプ大統領のような人物がアメリカを代弁することに、恥ずかしいと思う人たちが多ければ、引きずり降ろされるでしょう。が、そんな人が少なければ再選されることになるでしょう。アメリカ人とトランプを同一視されても仕方ありません。私にとっては、その昔グリーンカード取得の申請までした憧れの国アメリカでしたが、今では不良集団の中学校のように映り、決して移住したくない国になり果ててしまいました。
このことは日本にも言えることです。
万が一、鳥の目で日本や世界を観察する人たちばかりになったら、日本の政治家が総入れ替えされるかもしれません。もしそうなれば日本は世界の見本となって、平和創りのリーダーシップを取る可能性もあり得ます。日本人にはその潜在能力があるように思うのです。そんな一途の望みを捨てず、日本及び世界の変革を願って止みません。

「快三昧に生きる」【2】

→「快三昧に生きる」【4】

 

 

 

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