『快三昧に生きる』【2】

2020.6.21

のっけから、厳しいことばかりで落ち込んでしまわれた方、申し訳ありません。

私たち日本人は75年前の第2次世界大戦終結のあの時に、パラダイムの大変革を経験しているのですが、すっかり忘れてしまい、というよりも世代交代し当時のことを知らない人たちの方が多くなって、平和の持続が当たり前の状況が長く続いたことから、危機感を実感できないという頭の構造になっています。 それでも一人ひとりが自立し、国家依存、社会依存、組織依存、他者依存などと依存癖のない状態なら大丈夫なのですが、往々にして周囲に依存し、周囲の動向に合わせながら自分の行動を決める、というような人たちにとっては、現状況は非常に厳しい結果をもたらしかねない、周囲の動向を観ているうちに、自分はいつの間にか「無用者階級」の仲間に入ってしまっていたという結果を招く可能性もある、そのことをしっかり肝に銘じて覚悟した方が身のため、ということを言いたかったのです。(実際に東京の謀タクシー会社では、売り上げが下がる一方なので、今のうちに失業保険を受け取る方が社員のためと、全系列会社社員600名全員を解雇しました。相当の失業給付を受けた人は英断と評価したものの、65歳以上の人は50日分1回のみの給付で、未だに会社側と係争しているとうニュースも目にします。

『快三昧』とは少々乖離したような話ばかりが続き恐縮ですが、心配いりません。本書の目的はあくまでも『快三昧』なのですから。

そこで、何をどのようにしようというのか?
結果として『快三昧に生きる』を実践し、それを満喫している私のアイデアを公開しようと考えたわけです。

 知らないうちにプログラムされている私たち

人は自分の軸足を変えるとき、「健康のため」とか「開運のため」とか、自分にとって好都合な可能性のためには「お風呂に入る時、いつもは右足から入っていたが、意識的に左足から入るようにする。」などと、何となく意識してみることがあります。
それと同様、「無意識にプログラムされた観念(または信念)に焦点を合わせ(アテンション)て熟視」しよう!というロジックで、難しい理論ではありません。
むしろ難しいのは実践的に自らの観念(信念、以後観念で統一)を紐解くこと、更にその上で、望む方向へマインドセットし、観念化するまで、繰り返しセルフコントロールへ向け試行することです。その道程はそれぞれの気質・固定化の強度によって異なる時間を要することになります。
そのためにここでは、簡単なロジックで、視点を変え、切り口を変え、何本もの登山道を選択できる山へ登るごとく、それぞれに合った道を準備し、説明を重ねながら新しい観念への道しるべ、または舵取りのアシスタント役になるよう、進めて行くことになります。

ところで、あなたは前記のように自分の軸足を意識したことはありますか。
軸足は無意識に決められた利き足の補佐をする足で、私たちは誰もが知らない間に軸足を決め、行動しています。
同じように、事象の発生に対して反応する、感情・思考・行動は無意識のうちに判断され、決められ、行動に移されています。そしてこれは〈慣性〉によって固定され、めったに変化することがありません。それと共に自分自身がこのような慣性で固定された思い癖(思考の軸足)にまで発展した観念を意識する人も、気づく人もほとんどないと言っていいでしょう。
今、この瞬間もあなたの脳では何らかの反応が発生し、何らかの感情と共に思考が形成され、この文章をあなたなりの観念上で判断し解釈しています。
例えば「分かり切った事いつまでも並べないでさっさとすすめよ!」「何?軸足が脳にある?軸足と快三昧がどう関係するんだ!」と言った具合にです。

この思考という脳の軸足に相当するものは、幼い頃からの経験、学習で、自動的にプログラムされたアプリケーションのようなものです。何らかの情報が入ると自動的に処理し行動できるというもので、情報を自動的にカテゴリーで分け、その中で判断し行動につなげる便利な機能です。俗に「脳の引き出し」と例えられていますが、いわゆる人間が子供から成長して大人になる条件が徐々に備わっていく過程で、学習する記憶を管理する構造が組み立てれるのです。
観念化する過程では、簡略化され、カテゴリー別に紐づけされ、余計なものは切り捨てられて記憶に固定されます。

このように経験や知識の積み重ねか゚、判断基準を作って構造化、自己組織化して行きます。これは年齢を重ねるほどに慣性が強固になり、歳を重ねるほど新しい経験や新しい知識を判断するのには不向きで、困難というデメリットを伴います。そのためにアップデートが必要なのですが、慣性が強化するほど、アップデートも困難になるという性質なのです。もちろん性格・気質もこの過程で固定化され強化されます。

本書においても、これまでの文章が抵抗なく受け入れられる人は、そのアプリをすでにインストールしているのでしょう。特にPCやスマホのリテラシーの高い人は、この思考が、アプリケーションの構造様式とか、ニューラルネットワークのプログラム形成過程と似ているからなのではないでしょうか。私はそれらのリテラシーはありませんが、AIの構造様式を勉強していると、とても私の理念とシンクロするところがあることに驚いています。。
「何を言っているのかさっぱりわからない」という方々は、大人になる以前から学習した「生きる処方箋」としてインストールされたアプリの形式違いだと認識して下さい。その方々は何度読み返しても入って来ません。なので、違和感や不明な部分は読み飛ばしてください。どこか別の章から理解が深められる可能性もあります。
という訳で、インストールされたアプリの違いが思考、判断、感情、行動をコントロールしていること、その「軸足を変える」という意識だけを最初に認識してもらうために、何度も何度も危機感を刺激して訴えているわけです。

 自分の中の常識…無意識の癖

例えば、何らかの情報に対して「善い」「悪い」を判断基準にする人がいます。
今回もコロナ禍での政府、自治体の自粛要請に対して、開業している店や電車内などでハラスメントをする人は、その典型かもしれません。
世の中の善が正義で、それこそが社会人としての1丁目1番地という偏向的思考が固定化され、常に「善」に従っている人がその気質が強く固定されることによって、善を犯す悪を許せないという感情に支配され、苛立ち、怒りを押さえられなくなる。これは戦時中の思想統制、言論弾圧の構図を思い出す構造で、戦争に非協力な市民、反対者は「悪」として市民が警察化した、あの時代の構図そのものです。市民同士の相互監視など、北朝鮮独裁国と同様な思考に陥る危険があります。

「善い」「悪い」だけが、人間社会の判断基準という単純な思考も、無意識の癖としてインストールされてしまうと、それがすべてに応用されます。
社会は文化で形成され、文化はその時代時代の思想、宗教、科学、倫理などなど、時代によって多様になればなるほど、文化的色合いも複雑化するものです。

例えば宗教色の強い国は、その影響が強く、アッラーのような唯一神を崇め、神にすべてを託すことを「善」とする文化では、内側から見るとアッラーに守られた幸運な国と自負するでしょうが、外側の国から見ている人たちには、思考の自由を抑えられる不自由で非科学的・非民主的な国というように観えるでしょう。どちらが「善」とも「悪」とも言い切ることはできません。答えは立場や観点で異なる相対的なものだからです。それぞれの観点から決められているものです。殺人だって戦時下の国や兵士にとっては「善」です。
それぞれのインストールされたアプリによって判断されるということです。

時には、家系を重んじる儒教文化では若死したも者、罪を犯した者は、お骨も家系の墓にも埋葬されることなく系図にも残さないのだそうです。若くして死んだ人は犯罪者扱いされる、戦死した人などのことを考えると、日本人の私たちには理解し難い文化です。

私たちは、そういったそれぞれの「観念」を、時代や国、生まれた地域の影響を受けて成長と共に形成している、ということです。
そしてそれが時を経るごとに、自分の中の常識となって、自分を自動コントロールし、自分の行動を決定している。人種差別やそのたのハラスメントも、同じ理由で発生します。

そのことをまず徹底的に認識することから始まります。
一度聞いたり読んだりするだけで、理解したといえども徹底認識までには至りません。
なぜなら、自分の常識、自分流アプリ、自分流観念、という無意識の癖がこの認識を阻むからです。

理論的に整合性があるからと言って、その癖が簡単に変えられるようなヤワな癖ではないということも自覚してください。整合性とは別のところでインストールされたものが多いからです。
幼い頃植えつけられた思考は、整合性の可否、矛盾の有無などの判断力が備わる以前に叩きこまれたもので、何もかも鵜呑み状態から入っています。

このように考えると恐ろしくなります。
例えば泥棒一家に生まれたら、泥棒は生計のための手段ですから、悪いこととは思いません。ただ両親はこそこそと周囲を警戒しながら行動するため、少しづつ周囲の人たちのような、堂々とした悪びれない行動と比較して、違和感を覚えるかもしれません。それでもそれくらいで泥棒稼業から足を洗おうと考えるほど勇気も力も備わっていません。やがて成長してそういった力を備える頃に社会のルールを知っても、時すでに遅しです。しっかりインストールされた泥棒視点は焼き付けられ、泥棒に好都合な条件が目に入ってしまうでしょう。入った情報の観点癖を消しゴムで消すようには消えなくなってしまうのです。

「観念」とはそういった性質のものです。

人により、国により、文化により、時代により、場所により、関わる人によって観点が異なる「観念」、これこそが自らを形成し、自らをコントロールし、動かしている原動力となって人生の道に思い癖というレールを引きます。レール上を走っている間はその慣性に従って走り続けます。
例えそれが、苦痛や不安、不幸など、心の痛みや不本意な現象を伴うとしても、レール上を走るトロッコはどこまでも不本意な現実を産みながら、走り続けるでしょう。
ついつい“仕方ない”と諦めてしまう、自分で考えることが苦手、「嫌」と言えない、いつも空気を読んでしまう、自分から率先して行動できない、つい〇〇のために我慢してしまう、心配や心労が絶えない、イライラや怒りを抑えられない、ということすべてが「観念による思い癖レール」によるものです。もしあなたに思い当たることがあるなら、思い癖というレールを紐解き、新たなレールを敷いて方向転換することで、思い通りの人生レール上を走ることも可能なのです。

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→「快三昧に生きる」【3】

 

 

 

 

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Comment

佐藤 肇 敬子

お身体に気をつけてください。楽しみにしております。ありがとうございます。

返信
佐藤敬子

希望がわいてきます。ありがとうございます。
先日もお花のお庭をたくさん見学できて楽しかったです。
ありがとうございました。

返信
myosho

ご覧いただきありがとうございます。
鬱陶しい季節ですが、心晴々とお過ごしいただけますよう、祈っています。

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