意識のちから

脳と無意識

脳と無意識 
「受動意識仮設」という言葉が飛び交い、興味をそそられ調べてみたところ、前野隆司(慶応義塾大学教授)氏がロボット工学の研究途上で人間の意識に関する仮設として産み出したものということでした。

 「受動意識仮設」とは、脳の機械的動作を言い、人間のイシキというものは、ただ見ているだけ、ただ感じているだけで、何の決定権もなく、脳が機械的に動いて決めたことを、自分の自由意志で動いていると勘違いしているだけの哀れな存在にすぎないというのです。

 仏教では、「私は幻想」という根本理念があります。私だけでなく現実に存在しているすべてが幻想にすぎないと言っています。目に映ったものが脳で処理され、脳内映写機に映し出されたものを、現実に外側に存在しているかのように錯覚しているという「受動意識仮設」の考えと一致するのです。

 このように身体の部分の刺激が脳という映写機をとおして、映像(またはイメージ)となりイシキとして感じる、というような捉え方をしてみると、般若心経の「色即是空・空即是色」がすんなり理解できるのではないかと、このテーマをとりあげてみました。

 色とは現実に見えるもの、空はその逆。空は空っぽの意ですが、厳密にはいろいろな説があり、「何もない」と言いきれないところがあります。ここでは縁起を引き寄せる何らかの非物理次元とします。

 「受動意識仮設」では外界の現実はすべて脳によって判断されたバーチャルリアリティーということになり、脳の作用で現れたり消えたり、また顕れなかったり、ということが無意識に行われていることになります。そうなると色即是空、空即是色で表される仏教の「幻想」という空の概念(思想)も腑に落ちるのではないでしょうか。

 この「幻想」の理解は私たちに大きな幸運をもたらす源泉になるのですが、これまで仏教的「幻想」思想がなかなか浸透しなかったことは残念なことです。私たちの生涯には招きたくない不幸や、苦が押し寄せることもあります。そういう体験が記憶に残り、トラウマ、鬱、そして痛みの幻想まで創りだす脳の働きを知ることで、そういったものが実体なき幻想と理解できたら、私たちはすぐに自分を立て直し歓迎できる幻想へと切り替えることも可能だと知ることができます。否定的な事象から遠ざかり、楽しい、面白い事象に関わることで、その感動、感覚の意識が蓄積されて古い脳に蓄えられ無意識として活動し始めれば、その無意識はさらに幸福な事象を引き寄せ、セレンディピティーな日常を創造してくれるでしょう。なぜなら脳に蓄えられた意識の凝集は何れ古い脳に無意識として蓄えられるというのですから。 

 

 

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