「フィルター」が創る世界(2-3)

脳は自ら再配線する―その3「本能」

 私たちは脳に支配されているのではなく、私たち自身が脳を支配している、ということを本当に認識できたでしょうか?今回は基本的疑問「本能」についての考察です。

『SUPER BRAIN』(ディーパック・チョプラ著)より

 闘争逃避反応は、ストレスに対する本能的な衝動として私たちの脳に組み込まれているが、だからといって、高速道路の息苦しいスモッグの中で立ち往生して苛立ちを募らせるドライバーたちが、一斉に車を乗り捨てて逃走したり、乱闘したりはしない。フロイトは「文明とは、より高次の価値観を優先させるために、原始的な衝動(反射的闘争・反射的逃避)を抑圧することによって成り立つものだ」と考えていた。これは十分真実味を帯びている。しかし彼は、その代償は大きい、と悲観的に考えていた。

低次の衝動を抑圧しても、その存在を消し去ることや、深層にある恐怖や攻撃性と和解することは決してできない。その結果高次の価値観と低次の衝動の間に世界大戦のような集団暴力の爆発が贈る。抑圧されたエネルギーのすべてが制御不能な残虐な形で噴出し多くの命を奪うのだ。
 
サイコパス・宗教的こじつけ聖戦など、世界には多くのこのような現実が未解決のままとなっています。

 完璧な答えを出すことはできないが、それでも、動物的本能の操り人形というレッテルを人間に貼るのが誤りなのは確かだ。高次脳も低次脳も劣らず合理的で強力で、進化的である。脳内最大回路は高次脳と低次脳の間で自動的に制御されており、融通が利く。

 あなたがプロアイスホッケーの選手で攻撃を仕掛けるポジションにいるとしたら、攻撃を好む能回路(攻撃志向フィルター)を形成する選択を重ねてきたことだろう。しかし、それはつねに一つの選択であって、いつかその選択を悔やむ日が来れば、引退して仏門に入り、慈悲について瞑想し、脳の回路をつなぎ直してより高みを目指すこともできる。いつでも選択し直せるのだ。

「私の脳がそうさせるのだ」という言葉はほぼすべての望ましくない行動に対する、お決まりの言い訳となっている。私たちは自分の感情を自覚することもできるが、自分の感情を無私する洗濯もできる。躁うつ病や薬物依存症、恐怖症に苦しむ人にとっては、「言うは易し、行うは難し」だろう。しかし健康な脳に至る道は、意識的な気づきからはじまる。その道の行き着く先も、意識的な気づきで終わる。その道を一歩一歩、歩いていけるのも、意識的な気づきのおかげである。脳内では意識的な気づきの起きている場所にエネルギーが流れる。エネルギーの流れが止まると、あなたは硬直する。

 クモを死ぬほど怖がる人のことを考えてみよう。恐怖症とは、身動きできなくなる反応である。クモ恐怖症の人はクモを見た瞬間、恐怖の波に襲われる。低次脳が複雑な化学反応の連鎖を引き起こす。ホルモンが血液を駆け巡り、心拍を速め、血圧を上げる。筋肉は逃走または逃避に備える。両眼の焦点は恐怖の対象に固定され、視野が狭くなる。心の目に映るクモは拡大されている。恐怖反応はあまりに協力で、ほとんどのクモが小さくて無害であることを知る高次脳の働きを失わせる。

これが脳にあなたが使われている状態の典型例と言える脳が偽りの現実像を押し付けてくるのだ。基本的に恐怖症というものはすべて、現実を湾曲して見せる。高所は、パニックの原因にはならない。解放空間も、飛行機のフライトも恐怖症の人が怖がる他のありとあらゆるものも原因ではない。恐怖症の人は脳の使用者たる権力を放棄することで、硬直反応を起こして身動きできなくなるのだ。意識を目覚めさせ、脳の使用者たる支配権を本来の持ち主の手に取り戻させることによって、恐怖症は治療できる。
 高次脳は間違いなく最も本能的と言える類の恐怖にも打ち勝つことができる。そうでなければ、登山家(高所の恐怖)、綱渡りの軽業師(転落の恐怖)、ライオン調教師(死の恐怖)はこの世に存在しないだろう。とはいえ、不幸なことに、誰もがみな、クモの姿をイメージするだけで冷や汗をかく恐怖症患者のようなものであるのも事実だ。私たちは恐怖に屈する。クモに対する恐怖ではなく、失敗、屈辱、拒絶、高齢、病気、死など、「日常」のことに対する恐怖に屈するのだ。恐怖を克服できるはずの脳が、同時に暮らしのなかの恐怖に私たちを従わせるとは、なんという皮肉だろう。

いわゆる下等動物は、心理学的恐怖とは無縁である。ところが私たち人間は心の内に広がる内面世界に大きな苦しみ抱え、その苦しみが身体的問題となって表出する。脳に振り回されるがままにしておくのは、非常に危険だ。しかし逆に、脳を使いこなせるようになれば、その恩恵は無限である。
 

 ちょっとしたど忘れを、すべて加齢に伴う後戻りできない老化の前兆とみなしたり、認知症の顕れととらえたりしていると、その思いが現実となる可能性は高まっていく。「記憶力が落ちる」とこぼすたびに、自分の脳にそう言い聞かせていることになるからだ。こころと脳のバランスにおいて、たいていの人は、すぐに脳のせいにし過ぎる。本来は脳を責める前に、自分の習慣、行動、注意、意欲、関心の的など、(これらがみな「フィルター」となる)心の有り様に目を向けるべきなのだ。新しい何かを学習することへの関心を失い、諦めてしまうと、記憶力に発破をかけられなくなる。脳には「なんでも目をかけてやれば、育つ」というシンプルな原則が成り立っている。そのため、記憶力を伸ばしたければ、自分の人生がどのように展開していくのかに目を向ける必要がある。

 今回はほとんど『SUPER BRAIN』からの引用に終わりましたが、この回は読み飛ばすことなく、むしろ何度も繰り返し読んでいただきたい重要な部分です。読み終わって、私たちがこれまで、如何に自分の人生を低次な脳や、どこかの誰かなど「あなた任せ」に生きて来たかを思い知らされることになったと思いませんか?「仕方ない」と思っていたことのすべてが、みな自己責任であったことを‼
 しかし、そうであるなら却って好都合というものです。これまでどうしようもない、と諦めていたことのほとんどをやり直せる可能性が示されたということなのですから。今からでも遅くはない!すぐにでもとりかかろうではありませんか。

 

 

 

Comment

野宮

低次の衝動が大きくなっていると、きずいた段階で、やり直しができるというのは
いいね。

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myosho

❝原始的な衝動❞が低次脳だということを知っているだけでも、高次脳に意識向けられるので、これは素晴らしい論説だと思います。未来に希望が持てますね。

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