社会変革への大胆な提言『モモに学ぶ時代の牽引者たち』

NHK BS1スペシャル「コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ」

BS1スペシャル コロナ新時代への提言3 それでも、生きてゆける社会へ 山口周 斎藤幸平 磯野真穂

 

児童文学者ミヒャエル・エンデの『モモ』は、私たちに「本当のコトとは?」を教えてくれる、大人たちへの覚醒を促す奥深い哲学書ではないかと思っています。

そんな『モモ』を愛読する知識人たちも多く、今回はその一部の3人の方々による、コロナ禍から見える「本当のコト」が語られたNHKの番組からお伝えしたいと思います。

山口 周 (独立研究家)
コロナにより近代が終わろうとしている。誰もが「生きるに値する社会」は、どうすれば実現できるか?

斉藤幸平 (経済思想家)
マルクス研究に新たな光をあて、格差や環境問題を乗り越える道を探り続ける。
「コロナも気候変動も、真犯人は資本主義

磯野真帆 (医療人類学者)
病や死を前にして人はどう生きるべきか問い続ける。命と言うものは簡単に数値化できるものではなく、数値化すればすべてがわかるものではない。

ナレーション
『モモ』の世界に描かれる人々は、現代社会に生きる我々そのもの。他者と触れ合う時間を奪われ生きずらさを募らせていく世界。
コロナ禍によって突きつけられた問、「命か、経済か?」。
そうした問そのものに斉藤幸平は憤りを覚えている。

斉藤:
先進国においては、この数十年間にわたり、新自由主義政策が進められてきていて、例えば医療保険制度に対する予算削減が行われてきた。保健所の数が減らされ、病床数が減らされ、国立感染症研究費や人員も減らされた。
そうした状況にウイルスが入ってきて感染は広まってしまうと、一気に医療崩壊までつながってしまう、というように脆弱が露呈された。
「命か経済か?」というものを個人個人が選ばなければならないような過酷な状況に置かれていると思う。
本来、リスクを個人に押し付ける社会は間違っている。国家が個人に対して現金給付をするなどして、経済のリスクを個人のレベルで減らすことは充分にできることではないか。

ところがこの間の新自由主義の政府はできるだけ人々の生活に立ち入らない、すべてを自己責任という形で個人のリスクマネージメントに任せてしまう。そうしたやり方をず―っと推し進めてきた。いわゆる「自助」です。

この「自助」ばかりが大きくなって、「公助」や「共助」が非常に小さくなっている社会は、端的におかしいのでは?みんなが苦しんでいる状態の中で、一部のすでに充分豊かであった人たちが、ますます富んで行く。これまでも様々な大変な想いで働いていた人たちが今、この状況下でリモートワークもできなくて、リスクの中で働いているにもかかわらず、ますます困窮していく。
こうした二極化と言うのが一つ、資本主義の本質的な傾向だと、私は思っている。

ナレーション
2020年のコロナ危機に対して、各国政府が行った財政出動によって、株価は高騰。日本の富裕層トップ50人の資産は5割近くも増えたという。一方で経済的に困窮する人々が増加、年間の自殺者はリーマンショック以来11年ぶりに増加へ転じた。そんな現実を前にして斉藤が読み直した本が『モモ』だった。

斉藤;これは端的に言って「脱成長」の話だ!

ナレーション
1997年先進国の高度経済妹町による歪みが地球規模で露呈し始めた時代、ドイツ出身の児童文学作家ミヒャエル・エンデは『モモ』を発表する。

主人公のモモは、髪はモジャモジャ、服はボロボロの少女。どんな相手の話にもじっと耳を傾けるのが多くの人に愛され、幸せな時間を共有していた。
そこへ灰色の複を来た男たち❝時間泥棒❞が現れる。

「君の生活を豊かにするために、時間を節約しよう!Time is money 時は金なり節約せよ!」と人々にけしかける。
そして、節約された時間を盗む。やがて人々はあくせく仕事に追われるようになり、モモと心を通わせる時間を失っていく。

斉藤;
『モモ』の本を読むと、行き過ぎた広告の批判とか、ファストフードの批判など、一見すると豊かな社会に見えて、ますます社会は画一化されていく、効率化を進めた結果として、ゆとりが失われ、生きづらくなっていく。灰色の男たちは資本
人間ではないが、人間が産出したもの、あたかも人間のように動き出して、人間たちを支配するようになる。

これはマルクス『資本論』のテーマ、資本主義は私たちを働かせたたいし、消費させたい。

ナレーション
自分たちの生活が日ごとに貧しくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを誰一人認めようとはしませんでした。

斉藤;
今の資本主義社会の非常に残酷な「経済か命か?」という選択肢を突きつけられたときに結局は「命を犠牲にして、経済を回し続けなければ、命も失われる」という脅しが使われ、経済を回すことに駆り立てられる。
本当は私たちは答えが解っている。「命か経済か?」なんて選ばなくてもいい社会を創らなければならない、本来はそういう社会は可能なはず。しかし私たちは可能ではない、仕方ないんだ、資本主義しかないから・・・・と思い込まされていることで、私たちはそれに従って別の社会を思い描くことを諦めてしまっている。

ナレーション
自分たちが知らず知らずのうちに思考停止に陥っていることに気づかない現代人。磯野真帆はコロナ禍で飛び交ったある言葉に『モモ』との共通点を観た。

磯野;
コロナ禍の状況では、私たちの隅々まで専門家の声が響き渡り、そればかりではなく「不要不急」という言葉で何が生きる上で大切で、何が必要でないか?ということが、大きな声で拡散され、その声に対して賛同する人が多かった、ということに対して私は正直怖さを覚えました。

ナレーション
日々更新され発表される感染者数、死亡者数。これらの数字を目にしたとき、強烈な違和感を覚えたという。

磯野;
コロナにおいては「命か経済か?」を語られるが、この二項対立の一つの問題点は、両方数値化してしてくらべられるものとして見ているところが問題だと思う。
経済も数字で見ることができ、死者数、感染者数も数字で表すことができ、だからこそ比較してバランスを取る、それは数値を見れば解る。私が言いたいのは、そもそも命は簡単に数値化できるものではない、数値化すればすべてが解るものではない。
経済の基を辿れば、人が一人一人暮らしている、その暮らしの在り方を数字に要約しただけなので、それを見れば経済が守られているかどうかなど、全く解らない。

ナレーション
私たちは、コロナによって世界の観方そのモノを変えてしまったのではないか、と磯野は問う。

磯野;
1963年に行われたゴンドラ猫の実験というのがある。
2匹の猫を繋いで、1匹の猫は自由に動ける、他方の猫は箱に入れられているので自分では動けない。なので能動的な猫の動き合わせて受動的な猫は動かしてもらう、結果としてぐるぐる回るので、観ている景色は同じ。

その2匹猫を解き放った時、なにが起こるのか?という実験だ。

能動的に動いていた猫はなんの問題もなく動けたが、受動的なゴンドラ猫の方は位置が解らなくなったり、ちょっとした障害物を乗り越えられない。つまり情報として見ているだけでは世界の中で自分を認識して動くことが難しくなってしまう。

この状況は現代社会によく似ている。
自分で動いて、このくらいまでなら大丈夫かも?と判断するのではなく、すべて情報が先に来て指示される社会、今回のコロナ禍では多くの人たちがゴンドラ猫化した。

ナレーション
国家と企業と個人、そのある姿を研究してきた山口 周。彼もまたコロナ禍で読み直した『モモ』から豊かな社会を覆うある問題について考えさせられた。

山口;私が『モモ』を読んで考えさせられたのは、❝退屈❞と言う問題。

コロナ禍はある種、近代の終わりを告げる歴史的な事件になる可能性があると思っっている。近代の始めに告げたのは何か?ある一人の人物のつぶやき⇒マリー・アントワネットによる「退屈するのは怖い」というつぶやきだった。
退屈を失くすために消費と生産を始めた⇒近代の始まりマリー・アントワネットの「退屈するのは怖い」から近代が始まり、コロナによって近代が終わろうとしている。

ナレーション
退屈から逃れるために、繰り返される生産と消費。『モモ』に登場する悪役、灰色の男たちは、人類が自分から生み出した怪物、と山口は言う。

山口;
灰色の男たちがどういう状況で現れるかと言うと、必ず退屈しているときに現れる。人の心が退屈になった時、呼び出してしまう一種の「魔」。
『モモ』は退屈とどう戦うかがテーマになっていて、面白いのは『モモ』は退屈と真逆な存在になっている。

ナレーション
友達がみんなうちに帰ってしまった晩、モモは一人で長い間古い劇場の大きな石のすり鉢の中に座っていることがあります。頭の上は星をちりばめた空の丸天井です。こうしてモモは荘厳な静けさにひたすら聞き入るのです。

山口;モモはず—っと夜空を見上げて荘厳な静けさを聞くということ、モモは何もないことを喜べる。ある意味で私たちの消費活動というのが退屈を紛らわすために行われているのだとすると、資本主義の暴走、環境、資源、ゴミ、こういう問題は、私たちの退屈に対処する、ある種のリテラシーを身に付けないと本質的な解決はできない可能性がある。

ナレーション
とめどない生産と消費、そこに歯止めを掛けなければ人類に未来はない。

斉藤;コロナが今、ワクチンの接種が進んでいく中で、一つの出口が見えてきている。そうすると私たちは元の生活に戻ろう「経済を回復させよう」「悪夢は終わりだ」という人が出てくる。

この一年間で私たちが学んだこと、経験したことを忘れてしまっていいのか?当然そんなことはない。今までの生活に戻ってしまうことは、気候変動などの問題を考えれば破局への道を更に歩んでいくことに他ならない。コロナも気候変動の問題もその真犯人は「資本主義」だと思うから。

今までの生活に問題があったからこそ、今気候変動がこんなに深刻化しているし、自然環境破壊がこれほど進んでしまっていたから、今回のようなパンデミックも起きた。それをすべて忘れて、悪夢は終わりだ、元に戻そうとなってしまえば、また別のパンデミックがおきるだろうし、10年20年後にはもっともっと酷い気候変動が私たちの生活を襲うようになるだろう。今のコロナは最後の最悪な危機ではなく、今直面している危機の「氷山の一角」に過ぎない。だからこそ、もっともと別の社会を創っていかなければならない。

「世界をかえないためには、世界をかえないといけない。」

ナレーション
山口はコロナ禍の中で書き上げた本の中で、ビジネスの歴史的使命はすでに終わったのでは?と問う。

山口;
GDPというのは今から100年近く前に、どれくらいのモノを作れるか?(その国で)を測るための指標だった。

私たちの今の社会を見ると、モノで溢れかえっている。むしろ、そのモノが溢れかえっていることで、ゴミ、資源、環境と言った非常に大きな問題が起こっている。
物質的な不足を感じる人がどれくらいいるか?を調べるた時、8割~9割の人が「もうモノはいらない」と感じている。

❝いかに多くのモノを作ることができるか❞の物差しを当てて、ず―っとその物差しで成長させていくということをこの100年で行われてきたが、わたしの言葉で言い表すと【登山の時代の社会】と言える。非常に辛い思いをしながら、みんなで上を見て、物質的な側面では非常に豊かな国が完成した。⇒登山の末にある高原に行き着いた、とすると、今の時代は【高原社会】と言える。高原社会に世界で一番最初に到達したのが日本である、と考えられる。

ナレーション
高原社会に到達したことを祝おう、しかしまだ多くの課題が残されている。

山口;
一つは富の分配の問題、これは貧困の問題と言い換えられる。
80%~90%の人が物質的な不足を感じなくなった。逆に言えば10%~20%の人はまだ不足を感じている。
二つ目の課題は物質的な豊かさと、幸福感は両立しない。
安全で快適で便利なだけの社会から、生きるに値する社会「生まれてきて良かった」と子供たちが感じられる社会を創っていくことは高原社会を生きる私の大きな課題である。

ナレーション
物質的には豊だが生きづらさを感じる社会、果たして変えることはできるのか?斉藤は言う。その鍵はマルクスにあると。

ここまで語られた三氏の分析、提言を聞いただけでも、現在の社会の方向性が大きくずれていることに気づきます。

例えば、菅前総理のスローガンだった「自助・共助・公助」。常に自己責任から始まり、公助は最後の手段になっていることを示しています。政府の公助が最後の手段ということは、政府の必要性も低くなるということにならないでしょうか?また、自民党新総裁岸田文雄氏は、「成長なくして分配無し」と語っています。

立憲民主党のスローガンは「分配なくして成長なし」ですが、岸田氏の成長を優先する提言よりは、ピラミッド底辺に優しいとは言え、「成長し続けるイメージ」は「脱成長」という、斉藤氏・山口氏の提案からは大きく外れています。

また、つい最近のニュースで三菱電機品質不正問題、調査報告において、真因に組織論・風土論を上げていました。

三菱電機の品質不正問題、調査報告書要旨: 日本経済新聞 (nikkei.com)

三菱電機においては、現場の多くの従業員が強く意識し、帰属意識を持っているのは、製作所や工場であり、三菱電機という会社そのものに対する帰属意識は希薄であった。小さな単位で閉鎖的な組織が形成されていることが、本部・コーポレートと現場の距離・断絶を生み、過去の点検活動で品質不正が炙り出されなかった原因ともなっている。事業本部をまたぐ人事異動は、まれにしか行われていない。多くの従業員は、最初に所属した製作所内、工場内で人事異動が行われる。従業員にとって、東京に本社を置く三菱電機という会社や事業本部は、抽象的な帰属対象にすぎない。

ミドルマネージメント層が問題を上長にエスカレーションするだけの強い意思や時間的余裕を持つことができていなかった。

このように日本の社会においては「ことなかれ主義」や「異論を唱えない」「臭い物には蓋」という風土的な特徴があり、その土台の上に構築された組織では改革姿勢はご法度、進化よりも継続を好み、変化を嫌うという傾向にあり、それが因となって、目先のことだけを処理し自分自身で俯瞰する習慣は身についていないことが解ります。いつも俯瞰は親方日の丸という訳です。
このことはコロナ禍で発した菅総理のコロナ対策について「まずは目先のことに向かって全力でやるのが私の責務」という発言からも伺えます。菅総理に俯瞰できなくて、一体誰が俯瞰すると言うのでしょうか?

磯野氏が言う「ゴンドラの猫」化してしまったのかもしれないと思ってしまいます。

私見が長くなりましたが、続きは次回とします。

 

この記事をシェア:

コメントはこちらから

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です