既成概念の固定観念化
人は誰でも何らかの「思い込み」という枠組みの上に行動しています。
そのため独自の考え方を持つ者は存在しません。まれにあるとすれば、仏教の根本原理を修得した釈尊のように「何物でもない自分を感得した」という人がいるかもしれません。ですがそれさえも仏教根本原理という一種の思想に基づいた思い込みと言えるのかもしれないのです。
「自分自身は気づいていない物事の見方や捉え方の偏り」をアンコンシャス・バイアスというそうです。
このような表現は、マイノリティーへの正否を問うかもしれませんが、一面では自身の思い込み注視を喚起する表現かもしれません。
私たち凡人は、生まれてこの方世界の在り様を教育で学び、その他の社会、集団に所属し、そこで学習した価値観という既成概念を思い込み(固定観念化)の基礎にして、その上に自己の世界観を築いてきました。
もしも、そういった土台になる思い込み(固定観念)というものがない場合、物事を判断する目安、拠り所がないため、何も決断できず行動を起こせません。
インドの修行僧のように、一生座り続けることになります。凡人には無理です。
ただ、思い込み(固定観念化)の過程は、わが国では一方的教育や権威に基づく場合が多く、既成概念の受動的修得(受け身)で、気づかないうちに自分の内奥に形成されていて、自己がどんな思い込み(固定観念)に操られているかはほとんど知らないまま大人になることが多いものです。
但し子供の頃から「なぜ?」と問う習性があると、それを追求し、解明するために常に「考える」ことを厭いません。追求し、自分の頭で考え、納得することで、やっと自分の観念体系に記述するという習性です。新たな疑問が生ずると、そこへ向かって邁進します。
前者の思い込みは「洗脳の思い込み」後者の思い込みは「選択の思い込み」と私は名付けています。
1.「洗脳の思い込み」は、その思い込みをより深く信じることにエネルギーを費やします。
2,「選択の思い込み」は、矛盾の検証にエネルギーを費やします。
よって1は変化も進化なくより固定化を進めます。2は常に変化し、進化する性質があります。なぜなら、1の「洗脳の思い込み」には疑問を持たない前提があります。
学校教育、または国や組織、宗教教団の理念や教義に疑問を持ってしまったら、その集団内にはいられません(村八分・集団排斥行為)。「汝考えるなかれ!」です。
2、「選択の思い込み」は積極的に知りたいことを追求し、賛同し、納得した上で、自己の観念体系に加えるものです。それでも固定化するまでには何回も検証し、エビデンスを集め、矛盾を削ぎ落しながら固定化して行きます。
しかもそれは、後に学習する別の課題とも関連付けられることが、学習を重ねるごとに増えてゆきます。こうして自己の世界をどんどん広げて行きます。
「洗脳の思い込み」では、いつまでたっても自己の世界は形成されず、どこかの誰かに与えられた世界観を鵜呑みにし、自分に合わない部分には蓋をして(矛盾を押し殺し)、宿主に隷属しながら、実態は血肉を吸い上げられる存在となります。
このようなタイプの人は、自分がコバンザメのようにパラサイト(寄生している)していると思い込み、自分が選んだ宿主に貼り付き守られないと生きていけない、むしろ迷惑をかけないように感謝の意を表すべき、という思い込みに操られています。たとえ関係性がぎくしゃくしたり、無理をしながら合わせることが苦しくても、「あたりまえ」、「それが人生」この程度にとどまっているのは宿主の保護のお蔭、と言い聞かせています。
この行き過ぎが「統一教会」ですが、その土壌は日本文化にあったのではないでしょうか。こうして洗脳に弱い日本人資質が育ってしまったような気がします。
このような状況が「アイデンティティーの喪失」と言われる状況を作ります。 >> 続きを読む