2022年10月

洗脳の思い込み・選択の思い込み

既成概念の固定観念化

 人は誰でも何らかの「思い込み」という枠組みの上に行動しています。
そのため独自の考え方を持つ者は存在しません。まれにあるとすれば、仏教の根本原理を修得した釈尊のように「何物でもない自分を感得した」という人がいるかもしれません。ですがそれさえも仏教根本原理という一種の思想に基づいた思い込みと言えるのかもしれないのです。

「自分自身は気づいていない物事の見方や捉え方の偏り」をアンコンシャス・バイアスというそうです。

このような表現は、マイノリティーへの正否を問うかもしれませんが、一面では自身の思い込み注視を喚起する表現かもしれません。
私たち凡人は、生まれてこの方世界の在り様を教育で学び、その他の社会、集団に所属し、そこで学習した価値観という既成概念を思い込み(固定観念化)の基礎にして、その上に自己の世界観を築いてきました。

もしも、そういった土台になる思い込み(固定観念)というものがない場合、物事を判断する目安、拠り所がないため、何も決断できず行動を起こせません。

インドの修行僧のように、一生座り続けることになります。凡人には無理です。

ただ、思い込み(固定観念化)の過程は、わが国では一方的教育や権威に基づく場合が多く、既成概念の受動的修得(受け身)で、気づかないうちに自分の内奥に形成されていて、自己がどんな思い込み(固定観念)に操られているかはほとんど知らないまま大人になることが多いものです。

但し子供の頃から「なぜ?」と問う習性があると、それを追求し、解明するために常に「考える」ことを厭いません。追求し、自分の頭で考え、納得することで、やっと自分の観念体系に記述するという習性です。新たな疑問が生ずると、そこへ向かって邁進します。

前者の思い込みは「洗脳の思い込み」後者の思い込みは「選択の思い込み」と私は名付けています。

1.「洗脳の思い込み」は、その思い込みをより深く信じることにエネルギーを費やします。
2,「選択の思い込み」は、矛盾の検証にエネルギーを費やします。

よって1は変化も進化なくより固定化を進めます。2は常に変化し、進化する性質があります。なぜなら、1の「洗脳の思い込み」には疑問を持たない前提があります。

学校教育、または国や組織、宗教教団の理念や教義に疑問を持ってしまったら、その集団内にはいられません(村八分・集団排斥行為)。「汝考えるなかれ!」です。

2、「選択の思い込み」は積極的に知りたいことを追求し、賛同し、納得した上で、自己の観念体系に加えるものです。それでも固定化するまでには何回も検証し、エビデンスを集め、矛盾を削ぎ落しながら固定化して行きます。

しかもそれは、後に学習する別の課題とも関連付けられることが、学習を重ねるごとに増えてゆきます。こうして自己の世界をどんどん広げて行きます。

「洗脳の思い込み」では、いつまでたっても自己の世界は形成されず、どこかの誰かに与えられた世界観を鵜呑みにし、自分に合わない部分には蓋をして(矛盾を押し殺し)、宿主に隷属しながら、実態は血肉を吸い上げられる存在となります。

このようなタイプの人は、自分がコバンザメのようにパラサイト(寄生している)していると思い込み、自分が選んだ宿主に貼り付き守られないと生きていけない、むしろ迷惑をかけないように感謝の意を表すべき、という思い込みに操られています。たとえ関係性がぎくしゃくしたり、無理をしながら合わせることが苦しくても、「あたりまえ」、「それが人生」この程度にとどまっているのは宿主の保護のお蔭、と言い聞かせています。

この行き過ぎが「統一教会」ですが、その土壌は日本文化にあったのではないでしょうか。こうして洗脳に弱い日本人資質が育ってしまったような気がします。

このような状況が「アイデンティティーの喪失」と言われる状況を作ります。 >> 続きを読む

思想軸の曖昧な日本人にイデオロギーの露見現象2

 

ソーシャルイデオロギー装置が原因?

太田光が“統一教会擁護”で連日炎上…起用するTBSが示したまさかの回答

2022/10/06 06:00 © 女性自身

日曜の生放送番組『サンデージャポン』(TBS系)。MCを務める爆笑問題・太田光(57)の統一教会(現在は世界平和統一家庭連合)を巡る発言が、毎週のように物議を醸している。

7月31日の放送回では、“統一教会への追及が加熱することで、第二、第三の山上容疑者が出現する可能性がある”とメディアの報道を批判。しかし、統一教会の問題に詳しい紀藤正樹弁護士はTwitterで《第2の山上容疑者出ること恐れ被害と巨悪に目をつぶるということでしょうか》と反論し、SNSでも「論点ずらしだ」との声が相次いでいた。

「太田さんは9月25日の放送回で、デーブ・スペクターさんに対して『デーブさんも、(統一教会の信者を)“救いたい”と思っているわけですよね。難しいのは、統一教会側も“救いたい”と思っている』と発言。これに対して『教団を擁護している』との指摘が相次ぐことに。

また同放送回で、信者を奪還しようとする家族らの行動について『今までも、(信者を)拉致して閉じ込めたりとか、いろんな問題が起きている』と太田さんは持論を展開しました。

ジャーナリストの有田芳生さん(70)は思わず、Twitterに《太田光さんのこの発言。すっかり統一教会の主張です》《僕が太田光さんの発言を許せないのは統一教会から子どもを脱会させたいと苦労してきた多くの親御さんたちの苦労を知っているからです》と投稿。そして《現場を知らないのに発言するな》と糾弾していました」(全国紙記者)

そして翌週の10月2日放送回に、有田氏と旧統一教会に詳しいジャーナリストの鈴木エイト氏が登場。太田が70年代のアメリカであったという家族による強引な形での説得を引き合いに出しながら“統一教会信者の保護説得の方法もある時期において問題があった”などと主張すると、鈴木氏は「そもそも親子の話し合いをすること自体を妨害してきたのが統一教会側なんですよね」と返した。

それでも太田が「テレビは“白か黒か”を求めるが、公平に両方を報道するべきだ」などと持論を止めなかったため、デーブが「でも太田さん。もう毎週同じことを言って恐縮なんですけど、やっぱり公平も白黒もないんですよ、この場合は」と鋭く切り込んだ。

「デーブさんはTBSの『報道特集』で取り上げられていた息子を脱会させようと苦闘する父親の話をしました。そして『このつらいものを見れば、太田さんが少しでも今までのような言い方しないんですよ』『だからやっぱり毎回言ってるように、知らなすぎると思うんですよ』と声を荒げながら指摘。それでも太田さんは『いい人、無垢な人がいまも信者にいる。テレビが“悪だ、インチキだ”と報じていいのか』と話しました」(前出・全国紙記者)

そんな太田に対する反発の声は日増しに大きくなり、Twitterでは「#太田光をテレビに出すな」というハッシュタグまで起こる事態となっている。

そこで、本誌はTBSへ、サンジャポ内での太田の統一教会を巡る発言の炎上への見解、今後も起用を継続するかなどについて質問状を送った。

すると、返答は「様々なご意見があることは承知しています」とまさかの一文のみ。果たして10月9日放送回で、太田が口にする言葉はーー。

太田光が“統一教会擁護”で連日炎上…起用するTBSが示したまさかの回答 (msn.com)

 

「多くの嘘を言うように…」旧統一教会側、元2世信者に会見中止要求 本人涙の続行「どうかこの団体を解散させて」

2022/10/07 17:47 © J-CASTニュース

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の元信者が2022年10月7日に東京・丸の内の日本外国特派員協会で開いた記者会見に対して、教団側が会見中止を要求し、壇上で元信者が反論する場面があった。

会見を開いたのは、旧統一教会信者の両親のもとで生まれ、後に脱会するまで教団の活動に参加していた、いわゆる元「2世信者」の小川さゆりさん(仮名)。小川さんは過去にストレスで精神疾患を患ったことを明らかにしている。教団側は、両親の署名入りのファクスを特派員協会に送り、小川さんが「多くの嘘を言うようになってしまっている」と主張して会見の中止を要求した。小川さんは、夫と出会った4年前の時点で症状は治ったとしており、両親に奪われた200万円が返金されていないことを指摘しながら、「自分とどちらが悪なのか」「私が正しいと思ってくださるなら、どうかこの団体を解散させてください」と訴えた。

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思想軸の曖昧な日本人にイデオロギーの露見現象1

安部元首相国葬がトリガーか?

国会審議のないまま、安倍元首相の国葬を閣議決定した岸田首相。さらには国民が納得できるような説明もなく60%を超える反対派の中で、予定通り強行されたことで、国を分断する結果となりました。
思想軸が曖昧になって多様性へと舵を切ってきた現代において、イデオロギー分断の現象は、まぎれもなく安倍元首相の旧統一教会との関係性が動因であり、人々をデモという行為にまで搔き立てたトリガーは国葬強行によるものであることは間違いないのではないでしょうか。

私たちは皆、個々それぞれ、イデオロギー装置によって行動が発生しています。
つまり、すべての人が、何らかの洗脳の上に、人生が構築されているといってもよいのではと思っています。

日本において、個々人の潜在的イデオロギー装置は思想家を除いては、個々の人間関係の深さによって、イデオロギーが見えたり隠れたりし、イデオロギーによって組織される政治家においてさえも、見せたり隠したりと、時には自己の本音と組織の建前を使い分けたりと曖昧さを含み、積極的に公開したり、他者によってそれを掘り起こす作業は、日本文化の慣例において一般社会ではどちらかというとタブー視されているように感じています。

早く言うと思想信条の中核を持たない、あるいは中核が明確であったとしても、ぼかした表現をことさら意識することに努力を払うという、海外の国々の人からは理解できないような態度を呈してきたと言えます。

それは「アンチ派」との対立を避けることは勿論ですが、総体的には、「空気を読む文化」、極端に言うと、専制国あるいは社会主義国に似た、「世間の意向に沿う」という、全体主義とも言いえる、社会(の潮流)忖度による行動スイッチが自動的に入り、自己の主張は控えめにしようとする、(これもイデオロギー装置の一つですが、)それが強く働くからと言えます。

宗教においては猶更そういった一面が重視されてきました。
思想信条(信仰・イデオロギー)とはプライベートの極みであって、そこまで侵入できる人間関係は、極々近しい、共に共感し高めあえる仲間に限る、というのがこの日本社会の文化的習慣、あるいはそれ自然な状態と私は認識しています。みなさんはいかがでしょうか。

そのような習慣の影響が、日本人思想家の少ない理由なのかもしれません。
「みんな一緒、足並みをそろえる、一丸となる」といった昭和世代の残骸をどこかで引きずっていて、国民全体に浸透した集団主義・全体主義的ともいえる日本文化「主張すると嫌われ排除される」ことを恐れる風習。それがこのような文化的特徴を定着せることになったものと思われます。

学校教育から、一つの「正解」を教えられ、その正解さえ記憶すればいいという教育スタイルが、「考えること」を不要にし、みんなの動く通りに動き、みんなの進む方向へ一緒に進むことが「正解」という考えが習慣づけられました。

動いているうちはどこに向かっているか、という目的も知れず、知ろうともせず、ついた所で「ここどこ?」とまわりの皆に聞いても、「さ~?」といった具合なのです。 >> 続きを読む