考えあぐねて出た答え、それは信仰というよりも「居場所」探しの結果で得た「共に語り合える共通意識を満たせる場への執着」ではないかという思いに至りました。
つまり「生きる場所」といえる場になっていたのではないでしょうか。
教会はその想いを強調するような、サタン(外世界)だの、先祖の怨みだの、地獄に堕ちるだのを吹き込み、信者同士の共通する会話が、あたかも事実のように思い込んでしまう。そして、同時に信者同士が同じような苦しみから救われるために頑張って献金している様が日常になると、そういった仲間があたかも戦友のように感じ、戦友たちとの慰めあいは生きる糧にもなってしまっているのではないかと思えてきました。
「外の人には解らない」という想いは、むしろ信者間の共通認識を高め、内部の絆が深まり却って優越感にまで発展してしまうのではないか?
日本人にとって「信仰深い」ことは、ある意味誇らしいことでもあるのです。
毎日仏壇や遺影の前に、新しい花、新しいお水(またはお茶)、新しいご飯をお供えし、手を合わせ、更には経を唱えることは、そうすることで、災厄から逃れ、平穏な日々を実現できると思い込んでのルーティンになっている人は少なくありません。
また、そうした行為は先祖の霊への敬意を表し、称賛に値する行為と評価されます。
これは「先祖の御蔭」思想ともいえる日本人の根底に根付いた日本的信仰形態です。
この先祖を守るのは旦那寺です。旦那寺では個々の家系を把握し、先祖代々の霊の管理をします。檀家たちは我が家の旦那寺を支えることになり、普請などの際には労や寄付を提供します。葬儀や行事の際にも手伝いに行くことになります。
現在ではその形態が崩れ、檀家も少なくなり、お寺の維持が困難になっています。 >> 続きを読む