2021年11月

行動こそがすべてを語っている

『虚構』に操られる実態

 

虚構が行動に影響するプロセスは、図のようになります。

私たちは、自己の意識によって行動を選択しているかのように錯覚していますが、実はこうして『虚構』に操られた行動をしていることが解ります。

「こうしたい」と思っても、つい他のことを優先してしまったり、不快を感じながらも、つい我慢をしてやり過ごしたり、予定を立てたのに、他者の誘いを受けるとつい断れず、そっちを優先して計画変更したり、ということは誰にも経験しているのではないでしょうか。
つまり、「優先するモノ、コト」が、脳にプログラムされているために、そのような行動を選択するということがお解りいただけると思います。

受動的虚構においては、自分よりも社会のルールを優先すべきという意識が勝ってこのような行動結果を産むということです。
自分を優先させることは『我儘』と言う烙印が押され、社会との不協和を意味するため,自分の「快」はいつも後回しにされるようインプットされているのですね。
つまり、能動的虚構ではなく受動的虚構ががっちり構築されている結果の行動と言えます。

このような観方をすると読者の方からは「みんなが好き勝手してしまったら纏まらなくて困るだろう」という声が聞こえそうです。

そういった観点が基になって、理想的な人間の在り方をルールに取り込んで管理しやすいようなシステムが拡散されたのかもしれません。大元は宗教思想が背景にあったと言えるでしょう。 >> 続きを読む

(続)物語を創りながらその中で生きている私たち

 

「能動的虚構」構築の勧め

 先回、「この世は「虚構」で出来上がっている」について、仏教的見解と歴史学者ハラリ氏の見解から紐解いてみました。

一朝一夕には、それを鵜呑みにできない方々が大半なのではないかと察します。
だからこそ、何万年も前から仏教上で説かれた根本教理(縁起)が、現代になってもなお「由来」や「ジンクス」としての意味にしか使われていないのだと思います。

もちろん、物語や噂話が人類を団結させ、集団の力のお蔭でサピエンスは生き延びたことも事実です。同時に人間に必要以上に恐怖心を植え付けるような無用な物語、噂話も無数に作られたことも事実です。

それらを分別する能力を持たなかった時代には、それらすべてを信じ、怖れを抱き、そこから逃れよう、救われようと「神」という人を超える存在を生み出したことも否めません。それは「不安」を脱する手段となり、人間の寿命を延ばすことにも効果的だったかもしれません。

 2021/10/10の記事NEUノイsolution (続) 社会変革への大胆な提言 『モモに学ぶ時代の牽引者たち』 (matrix.jp) にマッチポンプについて触れましたが、ここでもまるで、同じことをしているように思います。

不安を煽って、救いの手を向け利益を得る、というこのような手法は詐欺の手口としてよく耳にします。ところが、現実においてもこのような手段を用いた商法は公然と行われ、誰も非難する者はいません。時々はブラック企業として名前を上げられる企業がありますがそれは、初めから詐欺を目的とした企業です。

そうではなく、確信犯的に公然と、政治の世界や社会的重大企業で行われているということを申し上げたいのです。上記の「神」という存在を創り出したルーツと同じです。

「不安」を解消するための商品は山ほどあります。私たちは「認知革命」という虚構を創り出す能力のお蔭で、「不安」を煽られることに極端に弱い性質を備えてしまったとも言えるような気がします。「保険」や「貯蓄」という概念はその代表的なものではないでしょうか?

これらは商用に誰かのアイデア(虚構)によって作られたものです。また文化、慣習、普通の概念、世間、諺、噂、ヒエラルキー・・・・・・・・・・・・・・・・・・も同じ人工の虚構です。

そして私たちの脳内プログラムの素材はほとんどこれらの「受動的虚構」から採用し、関係性を築き上げたといって言い過ぎではないでしょう。 >> 続きを読む

物語を創りながらその中で生きている私たち

「能動的虚構」構築の勧め

 私たちをはじめすべてのモノ・コトが虚構の中で存在していることを最初に気づいたのは仏教の祖、『釈尊』(紀元前7~5世紀ごろの人とされています)でした。

釈尊はそれを『縁起』という言葉で説いています。

 『縁起』とは?
 日々、瞬間々、様々な縁が起り、それらが集まり、また消え去りながら変化していく虚構を、あたかも独立自存の現実、あるいは我と妄想していることを戒め、あらゆる存在、あらゆる現象の実体を否定しました。私はこれを「縁起イズム」と呼んでいます。

縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ [2] [3] [1] 。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す [2] 。仏教の根本的教理・基本的教説の1つであり、釈迦の悟りの内容を表明するものとされる [2] [3] 。因縁生、縁起法、縁生、因縁法 [2] 、此縁性 [3] [注釈 1] ともいう。

参照: ja.wikipedia.org/wiki/縁起

仏教における真理を表す一つの言葉で,詳しくは〈因縁生起〉といい略して縁起という。現象的事物すなわち有為(うい)はすべて因hetu(直接原因)と縁pratyaya(間接原因)との2種の原因が働いて生ずるとみる仏教独自の教説であり,〈縁起をみる者は法=真理を見,法をみる者は縁起をみる〉といわれる。それは基本的には〈有るが故に彼有り。此無きが故に彼無し〉あるいは〈此生ずるが故に彼生ず。此滅するが故に彼滅す〉と規定される。

参照;縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

この説はナーガールジュナ(龍樹(りゅうじゅ)、2~3世紀の人)によって、縁起説と密接に結び付けられて深化しかつ拡大し、縁起―無自性(むじしょう)―空(くう)として確立した。すなわち、いっさいのものはそれぞれ他のものを縁としてわれわれの前に現象しており、しかも各々が相互に依存しあっていて、その相依関係も相互肯定的や相互否定的(矛盾的)その他があり、こうしていかなるもの・ことも自性を有する存在(実体)ではない、いいかえれば空であり、しかも、そのあり方もいちおうの仮のものとして認められるにすぎないとし、そのことの悟りを中道とよんでいる。

参照:縁起とは – コトバンク (kotobank.jp)

ところが、このように仏教の中心思想である「縁起」の思想は、時を経て継承される中で、尾ひれがつき、複雑化されたことにより、現在では異なる意味で使われるようになりました。

1,神社仏閣などの起源、由来の意味
2,縁起がよい、縁起を担ぐ、などの「縁起」は日常的な吉凶に関わる迷信、ジンクスなどの類を含む意味 >> 続きを読む