2020年7月

『快三昧に生きる』 【8】

2020.7.27

日常的によく耳にする「しがらみ(柵)」という日本独特の概念があります。
「他律・追従」(迎合主義)こそ「しがらみ」を生む原因です。
漢字で書くと「柵」と書くように。川の流れを堰き止める柵のこと。

「しがらむ」は、からみつける、まといつける、からませるといった意味である。 これが、名詞となって、水流をせき止めるために川の中に杭(くい)を打ち並べ、その両側から柴(しば)や竹などをからみつけたものをいうようになる

JapanKnowleg

このところの各地の悲惨なゲリラ豪雨災害でも思い知らされたように、どこかで堰き止めれば、どこかが決壊します。川を堰き止めるように、人生のスムースな流れを堰き止めるのが「しがらみ」です。「しがらみ」は一時的な堰き止めから決壊を招く因子といえるでしょう。

しかしながら、日本人は人間関係での「しがらみ(柵)」をつくりやすく、その「しがらみ」に絡みつかれ、纏いつかれることをあまり拒否しません。

でも「しがらみ」のために足を引っ張られ、意のままにならないジレンマは多く、問題にできないほど一般的な事象です。これが日本の「仕方ない文化」を定着し、二言目には「仕方ない」と言うようになりました。誰もがこの問題は「仕方ない」で片づけてしまいます。そしてストレスを溜め込む。「自律・自尊」の生き方からは、理解できない慣習です。 >> 続きを読む

『快三昧に生きる』 【7】

2020.7.21

ジレンマは日本語では両刀論法と呼ぶそうです。この解りやすい説明がありました。

ディレンマ(でぃれんま dilemma)

両刀論法と訳される。ジレンマとも。

平たく言うと、 選択肢が二つあるがどちらも好ましくない結果を生みだすため、 にっちもさっちも行かない状態のこと。 たとえば、 「学校に行くとジャイアンにいじめられる。 かといって家で寝ていればママに怒られる (大前提)。 学校に行くか家にいるかのどちらかである (小前提)。 いずれにしてもぼくは苦しむことになる (結論)」というのがそれである。

またこのとき、 (1)「学校に行ってもジャイアンにいじめられるとは限らない」 とか、「家で寝ていてもママに怒られるとは限らない」 などと言ってこのディレンマを逃れるか、 あるいは (2)「学校に行くか家にいるか以外にも選択肢がある (たとえばどこでもドアでどこか遠いところに逃げるなど)」

ディレンマdhirennma

 

・仕事と家庭のどちらを優先すべきか。
・起業したいが、せっかくコツコツ溜めた預金を賭ける勇気がなく、大企業を退職することができない。
・人は皆ジレンマを抱えながら生きている。
・ジレンマから自由になる唯一の方法は、欲望を捨て無になることと言うが、無になることなど不可能。

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを優先すればあちらから火の手が上がる。

本当はAを望んでいるが、Bをせざるを得ない。「あるべき姿と現実のギャップ」とは「ジレンマ」である。そのジレンマの存在によって、取りたい行動が取れない、そういったちょっとした「我慢」が重なり大きなストレスに発展してゆくのです。
よくあるジレンマの対処法に「妥協」や「歩み寄り」があります。ジレンマを抱えていると、お互いの立場に配慮して妥協が起こりやすいといわれています。 >> 続きを読む

『快三昧に生きる』 【6】

 

2020.7.14

今一度観念形成についてミクロとマクロな視点から詳細な観察をしたのちに、「自律分散型社会」について説明を加えたいと思います。

観念形成の過程において、私たち日本人の特徴は、競争社会で生き抜くこと、間違ってもドロップアウトするようなみっともない人間にだけはならないようにと教育されてきました。今でこそ多様性を認めようという動きもありますが、まだまだそれも建前上の理想でしかないように感じています。

そうした中で、社会的適応能力は必須な課題となります。家から一歩出れば戦場の如く、家以外の社会では、本音で生きることを許されません。社会で喜ばれない本音にはいつも蓋をして、できる限り建て前を駆使し、蹴落とされないよう細心の注意を払うよう教育されます。忖度能力はそんな処世術の際たるもので、この能力こそがコネや縁故につながり、優位な居場所獲得への早道になるからです。

創り笑顔、空気読み、八方美人、虚栄、体裁などは競争社会のツール(武器)になっています。こうした努力の結果「人間関係とは利用価値」というような考えが通説化するのは悲しいことです。ただ往々にして日本人の多く(特に年配者)はこのような社会観を共有しているように思います。 >> 続きを読む

『快三昧に生きる』 【5】

2020.7.7

「統覚」(統合された意識)と、記憶のネットワーク化については、もう少し紙面を必要とします。そのため、更なる関連事項など難しい領域への深堀は後にゆづり、ここではごく簡単に大枠だけの説明にとどめます。
前述のように、意識が統合されるという過程こそ、点が面に成る記憶のネットワーク化ではないかと確信しているのですが、この「点が面に成る」感覚が「気づき」につながっていることを再々体験したことによるものです。
「あ~そうだったのか~」と感じるとき、これまで入力した知識、体験の記憶が、あるきっかけ、刺激によって突然線で結ばれ、俯瞰視点から観えるという状態の感覚です。誰もがそんな感覚を一度や二度は経験しているのではないでしょうか。

実は、この感覚は脳内を喜ばせ、有用ホルモンの分泌につながるようなのです。

「快三昧に生きる」の神髄は、この「脳が喜ぶ」という作用に支えられています。もちろん「統覚」だけに依拠するものではなく、他にも「脳が喜ぶ」資源はあります。「統覚」が脳のシステムに強化されることで、「好奇心」を維持できる構造になります。「好奇心」こそ、人生レールの最も優れたエネルギー源となり、人生を楽しく創造する大きなツールとなります。

「統覚」については、今後再々登場することになりますので、少しづつ理解を深めていただくとして、もう一つ重要となる「快三昧」の障害になるストレスについて考えてみたいと思います。 >> 続きを読む

『快三昧に生きる』 【4】

2020.7.1

ポストコロナの時代を、これまでより平和で生きやすい世界に変革するパラダイムシフトというチャンスが、今、ここに到来している。そんな想いが筆を運ばせ『快三昧に生きる』が誕生しました。

こんなチャンスはめったに訪れるものではありません。この時代に生まれ、この時代に生き、この大変革の真っただ中にいるということ、こうした貴重な時期にいてエキサイトしながら、変化の過程を体験する。正に映画や小説の世界そのものが、現実の目の前に展開されているのです。これを感謝せずにはいられませんし、このチャンスを逃すわけにいきません。
どのような世界を望み、どのような国を望み、そしてそこで自分はどのように暮らしたいか?それを考えるだけで、自分なりの一石を投じることになります。
そういう個々それぞれの想いの一石が統合されて現実世界を創るのですから。
自分なりの一石を投じようではないか!そう思うとそれだけでワクワクします。そしてコロナ禍をワクワクというシールドでやり過ごしながら、コロナアフターのビジョンを描くことができます。

「引き出し」から「統覚」へ

最近の若者たちの中に、夢とか、希望とか、未来展望が解らない、そういったことを考えたことがない。むしろ、そういうものは必要ない。という人たちがいます。大人から見ると、無関心とか無感動といった冷めた目の持ち主たちに見えます。彼らは、異性にも興味を示さず、ステイタス(車・ブランド・出世など)にも興味を示しません。上司への忖度、先輩への気遣いなどにも無関心で、同僚たちとの‟付き合い”もはっきり断るというように、ある意味で「悟り」を想起させるような淡々とした生き方です。外側から見ると、楽しそうには観えませんが、彼らなりの道を開いていることは確かです。ひたすら「わが道を行く」新人類的人間像を示してくれています。 >> 続きを読む