「感情」は自己責任‼ 1.

・自己のフィルター除去は難しい

2017年6月7日の一人言で「感情」は自己責任‼
喜び、幸せという歓迎すべき「感情」、また怒りや不安という好まない「感情」、そのすべてが自己のフィルターを通した体験の産物である。
2017年6月10日の一人言では、でも自己のフィルターの除去は難しい。では、どうする?・・・で終わりましたが、あらためてテーマとして取り上げることにしました。

 6月に入ってからNHK「100分de名著」『維摩経』が始まっています。このお経は、私たちが日頃から仏教や仏教者たちに対して抱きながら質問できないような疑問を、維摩という在家老人が釈迦の弟子たちを相手に次々と論破し、弟子たちはみな維摩を敬遠するという形で綴られた物語形式のお経で、それはそれはユニークで痛快極まりない内容なのです。またこの『維摩経』は、タイムリーなことに“「感情」は自己責任‼”というテーマと、みごとにシンクロしています。
 そこで、この『維摩経』をツールにして「どうする?」の答えを導き出せないかという魂胆なのです。上手くゆきましたらご喝采! まず、『維摩経』の背景から簡単に示します。『維摩経』は紀元1世紀~2世紀に初期大乗仏典として世に出されました。在家者の立場から旧来の仏教の固定性を批判し、大乗仏教の軸たる「空思想」を維摩自身が病気の身体を方便として使いながら説くという、かなり異色の仏典です。大乗仏教以前の仏教徒は、家族や仕事、財産を捨てて仏道修行に専念する「出家者」が中心でした。初期仏教では「出家しか悟りを開き、解脱(輪廻のサイクルから脱出する)ことができない」とされていました。(小乗仏教、上座部仏教と呼ぶ)大乗仏教になると「出家者も在家者も同じように悟りを開き、成仏できる」と考えるようになりました。初期仏教においては出家者だけではなく、釈迦の時代から在家の仏教者も数多く、有名な在家仏教者も知られています。在家者の信仰の目的は二度と産まれ変わらない涅槃に行く解脱ではなく、少しでも良い世界に生まれ変わることでした。

 物語はガンジス川流域の毘耶離という都市の林の中で8千人の弟子と3万2千人の菩薩たち、そして数万人の神々を前に、釈迦が「仏国」について説法をする場面から始まります。仏教の用語の解説は省きますが、ここでの要点は「何のこだわりも執着もなく、すべては平等であるという目で世界を見れば、ここが仏国に見えるだろう」つまり、自分というフィルターを通して物事を見ていては、本質は見えてきません。と「とらわれを捨てる」ことの大切さを説き、それこそが仏の智慧であると言っています。

 こういうことは多かれ少なかれ皆さんも耳にしたことがあるでしょう。釈迦はとても優等生的であったようです。

 実は先回まで続いた「ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』のテーマである「ユートピア」と重なります。「仏国」とは仏教的ユートピアのことですから。人間はいつの時代もユートピアを求めて、その実現にエネルギーを燃やして生きてきたのがわかります。ブレグマンは経済的、政治的側面を切り口に現在を斬り、新しい「ユートピア」のアイデアの可能性をあらゆる過去のデータを使って、あらたな世界を構築しようという試みをしています。実は維摩のスタンスもブレグマンの斬り方を感じさせる部分があり、そういう面でシンクロを感じました。次回はいよいよ維摩と釈迦の弟子たちの絶妙なやり取りへと入ります。

 

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