鳥の目

閃き⇒エビデンス⇒確信に関する考察 2

‟「霊」と「非局所性」は結び付くか?”

 先回の記事1について、該当友人からの返答がありました。
最初にメールにて彼のサイト内の「新学問のすすめ」のURLが届き、既に一度拝読したような気がしていましたが、再度丁寧に読ませていただきました。そこでは古典物理学の基礎と量子力学の考え方を数学的手法で丁寧に説明されていました。
 その中には当然「虚数・複素数」が表現されていました。そこから閃いたのは、彼は虚数(ⅰ)に代わる実体験を言葉で表現したかったのではないか?ということでした。つまり現実と目に見えない世界とを橋渡しする、数学では「ⅰ」で表現できるような実体験を「霊」という言葉で表現されたような気がしました。そういう意味で非局所性と結びつけられたとしたら、これまでの拒否感は少し薄れて、彼の世界観を少しだけ垣間見ることができたような気がします。

 その後、彼のサイトで新しい記事として‟「霊」と「非局所性」は結び付くか?”が掲載されました。そこでは彼自身も「霊」という言葉には少々の疑問を持っておられたようで、最後に「愛」「愛理」という言葉を提案されていました。
 私としては、こちらの方がしっくりと合点がいき、ちょっとすっきりしました。

人間が自然であることとは?
 先回の記事中、「個人的デフォルト設定」という表現をしましたが、今回は無為自然な「生得的デフォルト」という比喩ついても書かなければならないと思い立ちました。

 個人的なデフォルトとは人為的(環境・体験・知識・習慣などにより)に設定されたもので、むしろ個々に後天的にカスタマイズされたものと言ってもいいでしょう。それ以前に人間としての無為自然な生得的デフォルトモードがあることを認識する必要があると思うのです。そのモードにアクセスするとき、実は非局所性とか量子的働きによる体験を実感することがあると考えているのです。
無為自然なモードとは、ストレスフリーな無理のない心地よい状態です。もちろん忖度やKY(空位読む)、…べき、…ねばならない、…のはず、などの制約行為から解放された状態です。
 実はこのモードへのアクセスがなかなかの問題で、後天的モード(思い込み、癖)にコントロールされてメタ認知が難しいという人が多いのですが、それも意識を傾けて検証することによって、充分に可能であると考えています。

 

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