鳥の目

スポーツマンシップって何?

    最近スポーツ界の精神面に疑問を呈する事件が多くなっています。所詮スポーツは「勝つ」ことを目的に競走し、争い合うものですので、「勝つ」ためにどんどん強さを求め、強くなるためには、どんどん鍛えなければなりません。

伊調馨選手に対するパワハラ問題で、日本レスリング協会第三者委員会から、パワハラ認定を受けた栄和人監督に対して、

「監督は畏怖される存在でないといけません」

「チームを統率する意味では、尊敬されつつ恐れられないと、選手を強くできないと思います。だから(認定されたパワハラ4つのうち)3つは正直、栄監督かわいそうだな、という部分はあります」と擁護する拓殖大学レスリング部監督の須藤元気氏。
 テレビ画面に映る栄監督の両耳はつぶれ、聴覚に問題ないのだろうか?と心配しながら見ている私としては、どうしてもスポーツ、特に格闘技の世界に違和感を覚えてしまいます。せっかくもらった健康な身体を自ら傷つけるまで鍛えなければならない、という考えがどうしても理解できないのです。

もちろん戦うことの好きな人たちは、同じ戦いを好む人同士で戦い合えばいいのですが、精神を鍛えるために戦い合う、ということは無理ではないでしょうか。
日本の「武士道」だって本来何かということははっきりしていないようです。

以下教えてgooより共感できる「武士道」精神とは?を紹介、引用。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4942275.html

1,「武士道」なんてものはありません。
正確に言うと、個人の思想としての「武士道」はありましたが、ラジオ体操みたいに一定した内容を持ち、日本全国の武士の間で共有されたような「武士道」なる精神は、江戸時代には存在しません。現代では様々な人が武士道を語っていますが、どれも文献学的な根拠も無く、自分の主観に基づいて勝手に喋っているに過ぎません。現代に謳われる武士道は、明治維新から世界大戦期にかけて武家階級の回顧主義と政府の国民統率・戦意昂揚のために作り出されたイデオロギーとしての武士道に由来し、現代でも日本人がアイデンティティ確保のために頻繁に用いています。歴史を勉強しないで、聞こえの良い理念だけで歴史を語ること(特に右翼)の好例です。
 そもそも武士たる条件は第一に「家系」ですし、総人口の数%しか占めていなかった武家階級の道徳・倫理を全国民に適用するなど可笑しいことです。
 実際には、江戸時代では様々な武士道が議論されていました。例えば、有名な山本常朝『葉隠』の「死ぬこと云々」に対して、山鹿素行は批判的です(「士道論」)。後に聖書的扱いを受ける新渡戸稲造の『武士道』を読むにしても、やはり同時代人の山岡鉄舟にも注目する必要があります(明治はギリギリ範囲内)。
 又、武士のあり方は階級、地域によって相当異なり、薩摩なんかはTVでは放送不可能な世界です(マスコミは常に作為的)。つまり武士道の定義次第では、武士の数だけ武士道があるということになります。
 これらの共通項をくくれば、或は武士道が見えてくるかもしれませんが、今のところそういう仕事はなされていないようです。
 
 *儒教、仏教の影響も議論されますが、いまは省略。
 *ここでは士道と武道を区別せず、武士道と単純化しています。
 
 参考までに
 菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)
 佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』(NHK出版)
 

2, 武士道は平和主義ということ。
  
  争うことが嫌い(私もそうですが)という臆病さでは出来ませんが、暴力や罵倒することは大して頭が良くなくても出来るし、智恵や勇気を持って命を削る決意した人。

過去の日本人の英雄「杉原千畝さん」「牧野伸顕さん」「新渡部稲造さん」「勝海舟さん」「西郷隆盛さん」らや、大東亜戦争(第二次世界大戦)で活躍した軍人さんの戦い方は武士道に習えていると思います。武士道といっても「死に方、殺し方」というより「生き方、活かし方」の定義が戦い方に現われていると思いますので。

どの方も平和ノーベル賞は受けていませんが値すると思います。ガンジーが平和ノーベル賞の栄光を何度受けるよう説得されても辞退していることから武士道にいい意味で嫉妬を隠せなかったように見受けます。

出世を棒にふっても、後継者や敵対者などに濃い役を譲っても、徒労に終わり見返りがなく負けても!負けるが勝ちで先人の犠牲に甘んじ、好戦的に興奮もせず平和ボケしておれる日本人です。以上引用終わり.

 

  この二つの武士道論はどちらも否定できません。いずれにしても、日本人のスポーツマンシップは「武士道精神」から派生したものと思います。

それにしては、あまりにもお粗末なスポーツ界ではありませんか?

精神を鍛える手段に子供にスポーツをさせる必要がかるか?と問いたくなります。

「禅」の精神が因となっているということを書いている方もいましたが、そもそも「畏怖」という概念は一神教ならともかく、仏教の真理には適さないと思います。

日本人は自分虐め(マゾ)が好きな民族のようです。自分を虐めると、当然そのスタイルを他にも強要するでしょう。自分の経験しか他に伝えられません。そろそろ人間進化のために、もう少し抽象的世界を学ぶことが必要ではないかと、つくづく感じる今日この頃です。

 

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