鳥の目

シンクロする過去と現在

“混迷する国会・タイムリーな番組”共時性?
こんなことまでNHK が放送⁉ 驚き・・・・

財務省問題(財務省次官セクハラ問題に、この国の「メルトダウン」を見た)で混迷する政界のニュースが連日世間を賑わすなか、NHK Eテレ『100分でメディア論』が再放送され、意図的に放送したのかと思ったら、企画は相当以前からあったようです。これこそホントに共時性ですね。最近NHKが面白くないと思っていたのですが、これは傑作でした。

1.      世論とメディア
  堤未果(国際ジャーナリスト)
  ウォルター・リッチマン著
  『世論』

2.      なぜ偏向報道は生まれるか
  中島岳志(東京工業大学教授)
  エドワード・サイード著
  『イスラム報道』

3.      「メディアと空気」
  大澤真幸(社会学者)
  山本七平著『空気の研究』

4.      メディアの未来
  高橋源一郎(作家・明治学院大学教授)
  ジョージ・オーエル著『1984』

最終章「マスメディアはどうあるべきか」

 四つのテーマに4冊の名著の解説と他の論客たちの意見を交えて番組は組み立てられていたのですが、4人の論客の足並みがそろい、それはもう見事というほど現代社会の矛盾や問題点を鋭く突いて、胸が空く思いの100分でした。

 四つの名著を踏まえて展開されたのは、あたかも国会の予算委員会で安倍にまつわる官僚たちの公文書改竄問題と、自己保身的忖度の為体も含めて、民主主義政治の危機が白日のもとにさらされている最中であるだけに、まるでそのことを分析して批判しているような印象を受けたのですが、この番組が収録されたのは、それ以前のことだったようです。

1.世論とメディア
  堤未果(国際ジャーナリスト)
  ウォルター・リップマン著『世論』

 民主主義は本来、人々の意見・考えの合理的な形成の上で成り立つものだが、リップマン(1889~1974)は、この常識と現実には大きな差があり、民主主義の統治原理が有効に機能していないと指摘しています。

 また、民主主義とは:大衆が情報を理性的に判断し、公益を考える力があることが前提なのですが、リップマンはこれを否定しています。つまり大衆にその力はないということを言っているのです。

 そしてリップマンは、人々はマインドコントロールされやすく、世論は簡単に操作されると指摘。人間は対象を見たり、対象について考えるときに、自分の中に確立されているイメージに合うように物事を捉えてしまうということ。このことをリップマンは「ステレオタイプ」という言葉を用いて、私たちが「見たと思っていること」「考えたと思っていること」がよく見知った物語の再生産にならないことを繰り返し指摘していいます。私たちは自分で検証したり、考えたりしていないで、何ものかが創作流布した疑似世論に洗脳されていないか。
 わたしたちは、事実ではなく与えられた環境のイメージ(これをリップマンは疑似環境という)をばくぜんと見、そして与えられたステレオタイプにしたがって物を見ているにすぎないのだ。「われわれの世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。」と。

大衆とは常にそういう「意見」を自分の意見と錯覚して生きているものではないか。

 常に誰かの意図的拡散という目論見につられて、それらの意見を自分の意見と錯覚して生きているのではないか、こうして簡単に洗脳されながら、自身はそれと気づいていない、そのステレオタイプ化された認識を作り出すのに、マスメディアは大きな役割をもっている。特に、経済第一主義の社会では、マスメディアはマーケティングによって大衆のステレオタイプを知ると同時にそのステレオタイプを強化するために大衆操作を行う、つまり「世論」がマスメディアによって作り出されたものになってしまうということです。

 リップマンは、第28代アメリカ大統領のブレーンを務め、政府に広報委員会を設置したそうなのですが、第一次世界大戦に参戦するアメリカ政府の行き過ぎたプロパガンダによる大衆操作や言論統制を批判してジャーナリストに戻ったということです。

 企業(国)が後ろ盾になっている利益優先主義ではマスメディアはマーケティングという名で大衆操作を行うので、ステレオタイプから来る偏見をなくすために、人々は、ステレオタイプのメカニズムに侵されやすく、「中立は幻想」で、どうしても中立にはなり得ない(提供者のバイアスがかかった主観による取材ため)、というメディアの限界を知ること、歴史を紐解いて長いスパンで考えることが必要、というようことを伝えていました。
 ステレオタイプやバイアスのかかった状態で見たり考えたりしていないか?ということに注意する必要がある。と。
 民主主義とは:大衆が情報を理性的に判断し、公益を考える力があることを前提としている。しかし現代において、そのような前提はもはや通用しない。とリップマンはこれを否定しています。つまり大衆にその力はないということを言っているのです。

「われわれの哲学が、それぞれの人間は世界の小さな一部分にすぎないこと、その知性はせいぜいさまざまな観念の粗い網の中に世界の一面と要素の一部しか捉えられないのだと語るとしたらどうだろう。

 そうすれば自分のステレオタイプを用いるとき、われわれはそれがたんなるステレオタイプにすぎないことを知り、それらを重く考えずに喜んで修正しようとするだろう。」

 また、自分がつねにステレオタイプによって物を見ているのだと自覚することで、わたしたちは他者に対して寛容になることもできる。

人は目の前の情報であっても“そのまま”受け入れている訳ではありません。自分の中のフィルターを通してバイアスされたものを情報として受け入れています。
 

 

人は全ての事を自分自身で経験していません。経験していない事に対しては、自分は受け取った情報、つまり、言葉の語感、文字の印象、から何かの本で見た(かもしれない)イメージ、TVでの映像、誰かが言っていた事、などからイメージを喚起する“感情”しか持てないのです。

つまり、捉えきれない現実はその人にとっては想像力を働かせた“感情”に過ぎないのです。そうしてできる人の世界とは擬似環境の世界です。
人は擬似環境の中で生きるもの、とリップマンは説きます。
擬似環境はリアルではありませんが、擬似環境の中で人は行動し、そして現実を動かして、擬似をリアルにしてしまうのです。

 人は大抵、見てから定義しないで、定義してから見ます。そうしないと頭の中で情報を処理しにくいからです。
例えば、遠くのものを見る時、『あれは何かな?』と見ますが、その時、既に周りの環境や状況から“見当”をつけています。まっさらな状態でものを見ていません。自分の持っている情報の中から選び出したもので“見当”を付けます。
それがステレオタイプです。
 よく人は“本能的に好奇心がある”なんて言いますが“一定以上は知りたくない”ものです。更にリップマンは『大衆は情緒で動かされる』とも書いています。

リップマンが『世論』の中で例に挙げたのが、D.W.グリフィス監督の1915年の映画『國民の創生』でした。
この映画『國民の創生:原題はThe Birth of a Nation』はアメリカ建国の歴史を振り返った映画です。この映画は、ストーリーが解放黒人奴隷による白人の娘のレイプ未遂と投身自殺などの出来事から始まり、南北戦争、奴隷解放やリンカーン大統領の暗殺、白人至上主義を謳う秘密結社カー・クラックス・クラン(KKK)の黒人虐待の正当化などを壮大な叙事詩みたいに描いています。
白人の視点から描いた当時の映画ですからそうなります。公民権の制定は1964年7月です。

 この映画の露骨な人種差別的な描写に対して上映禁止運動も起きたが、結果的に作品は大ヒットします。ただ、この映画の公開後、一度消滅したKKKが復活し黒人へのリンチ殺害事件問題が再燃しました。
堤未果氏も指摘していますが、中立なメディアは幻想です。と言います。
そしてマスメディアは気分です。独立したものとして毅然としていません。ですから大衆の気分に寄り添うと言えば聞こえは良いのですが、相互補完関係になります。すると、それを利用とするエリート、つまり政治家が現れます。
 そんな政治家が行うのは多数者の専制”、多数者の大きな権限重視に向かいます。少数者の意見は顧みられなくなります。それは即ち、民主主義の喪失です。少数者の意見も拾い上げてその上で合意形成を行うという民主着の趣旨から外れます。

 人は安定を保ちたいからステレオタイプを持つのは仕方がなく、そんな人が頼るメディアに“メディアは中立”なんて求めるのはおかしいのです。
しかし、そんなメディアが介在したフィクションの混じった情報によって、国の重要な事柄が決められ、世の中は動いています。それが現実です。
そんな動きであっても一応、その主体者は私達です。

「自分たちの意見は、自分たちのステレオタイプを通して見た一部の経験にすぎない、と認める習慣が身につかなければ、われわれは対立者に対して真に寛容にはなれない。」

 

 

 

 

 

2.なぜ偏向報道は生まれるのか
中島岳志(東京工業大学教授)
エドワード・サイード著(1996年刊)
『イスラム報道』

 この本はマスメディアに現われるフィクションとしての「イスラム」を描いたもので、イラン革命が起きた2年後に書かれています。イスラムを報道(cover)することはイスラムを隠蔽(cover)することだというダブルミーニング(俗にいえば駄洒落)の原題(Covering Islam)を持つ名著。

 サイードはエルサレムで生まれたパレスチナ人です。サイードはレバノンやエジプトで子供時代を過ごした後15歳でアメリカに移住し学者となった方です。テーマはパレスチナ問題や帝国主義でした。
『イスラム報道』はサイードが1981年に書いた著書です。時代背景ですが1981年の2年前にイスラム革命がありました。

イランは代々、“シャー”と呼ばれる君主が統治する王権国家でした。
1941年から在位していたモハンマド・レザー・パーレビ(1919~1980)はアメリカから経済的援助を受け、脱イスラムと世俗主義による近代化を“白色革命”と銘打って推し進めました。

※この近代化によって、当時、ムスリム女性が被る布であるヒジャブを被らない女性が街中を闊歩するという今では考えられない映像が残っています。

この近代化に宗教勢力や保守層が反発します。そして国内にデモが湧き起り、それを国王側が激しく弾圧し対立がエスカレートするという“よくある”パターンになります。その最中、革命の機運を高めたのは宗教指導者、シーア派12イマーム派聖職者であるホメイニ師でした。ホメイニ師は1964年にパーレビ国王の白色革命を非難し、国外追放を受けフランスに亡命していました。しかしこの時の国内対立において反国王派の象徴だったのがホメイニ師でした。
 人々はホメイニ師を掲げて国王に退陣を迫ったのです。
そして1979年1月にパーレビ国王は国外退去となります。そして1979年4月にホメイニ師が帰国しイラン・イスラム共和国が樹立します。

 近代化を目指していたはずの親米国家が民衆の力で打倒された事にアメリカはショックを受けます。
そしてホメイニ師の帰還の7ヶ月後の1979年の11/4にアメリカにとってイランを敵視する決定的なことが起きました。

イランアメリカ大使館人質事件です。

 その当時、アメリカにとってイランは「脅威」であり、「敵」であると報道されました。1980年4月7日にアメリカはイランとの国交を断絶します。
この444日間に色々な事がありました。人質救出作戦の失敗とかなどです。この事件発生時、アメリカはカーター政権でしたが、イランは大っ嫌いなカーター大統領が政権を失い、レーガン大統領が就任した時を見計らって(1時間後に)、1981年1月20日に人質を開放した、というのが有名です。
 さて大国アメリカは人質を取られる事態となります。問題も解決しません。そしてアメリア国内では反イスラムの機運が高まりました。
メディアは一斉に『イランとイスラムがアメリカを脅かす』と報じたのです。

その報道の中にすでに価値の押し付けがあったのではないか?

 そんなアメリカ国内の状況を分析していたのがサイードでした。
政治的プロセスは報道されずに親米と反米が報道される事、自民族中心または見当違いな価値の押しつけが発生する事、誤報が繰り返される事、真の展開が報じられない事、などがありました。
サイードはその様な事が我々を盲目にし、これまでの現実の関係性を無かったかの様にする、と説いています。アメリカのイスラムに対する敵視はこの時に発生し、そして根付きました。今。もしトランプ大統領の頭を割るとその様なものがゾロゾロ出てくると思います。

  サイードはアメリカやヨーロッパの人々がイスラム圏の国や人々を自分たちとはことなる「異質な他者」となっていった背景を考えます。
 それはアメリカのメディアは、アメリカの「国益」という国家的ドグマに支配されているから。それは広く、アジアについての視線にも遍在する。それはアメリカ国民の潜在意識となって形成され、国家戦略、外交戦略のベースともなってしまっている、と。日本も大差なにのでは???

 アメリカのイスラムに対する感情を理解する上で重要なのはサイードが書いた『オリエンタリズム:原題はOrientalism』です。

 その過程で「オリエンタリズム」(東洋主義)ということが見いだされます。つまり、西洋にとって東洋とは、進歩的な西洋に支配・威圧されて当然の遅れている地域であり、「オリエンタリズム」とは東洋を再構成する西洋の思考の様式だととらえました。この「オリエンタリズム」によって、東洋をステレオタイプ化し、西洋の進歩性(啓蒙主義)を正当化することになりました。

 ※堤氏が指摘していましたが、日本人が他の東洋人を見る場合、アメリカ人のような視点で他の東洋人を見るそうです。日本人は東洋人でありながら自分たちを名誉西洋”だと思うそうです。
 夏目漱石が満洲日日新聞に寄せた「韓満所感」の文章の言葉も少し紹介されていたのですが、イギリスのロンドンに留学して西洋文明に圧倒され、「支那人や朝鮮人に生まれなくて良かった」と考えた夏目漱石も、オリエンタリズムの被害者であり加害者でもあったということでした。

 話はイラン革命から2001年の9.11の話にもつながります。ザイードがこの文章を書いた20年後です。
 メデイアや政府や企業はいまだにステレオタイプ化した「イスラム」のイメージを広げ、人々の中に憎悪や恐怖の感情を植え付け、あおり続けているということを綴っています。

 しかも日本人は本当に世界の中で自分で何をするのかを考えていないということ。アメリカに任せておけばそれでいいと考えているのではないか。本当は日本人はアメリカのことさえわかっていないかもしれないのにということ。

 最近になって特に単純化が進んでいて、短いキャッチ、短いフレーズによって知った気になっているのではないか。「わかりやすさ」と「単純化」とは異なるものだということです。「わかりやすさ」とは、複雑なことも順序立てて、丁寧に説明することであって、「単純化」とは対立するものです。

 サイードの考えたことは、現在の日本社会に直結しているのです。

 そもそも、偏向報道と言ってしまうと報道を送った側の問題の様、つまり他人事の様ですが、実は、受け手側の問題でもあるのです。

※ただ、偏向報道とはステレオタイプの含まれる報道なのですが、ウォルター・リップマン著の『世論』に表される様に人は必ずステレオタイプをもつものです。

 

3.「メディアと空気」

大澤真幸(社会学者)山本七平著『空気の研究』

 山本七平(1921~1991)氏は評論家です。クリスチャンの家庭に生まれ、太平洋戦争に赴きルソン島で軍隊経験もした方です。マニラの捕虜収容施設を経て日本に帰国した後、出版社“山本書店”を経営し、日本人論を中心に評論活動を行いました。
イザヤ・ベンダサンというペンネームで発表した『日本人とユダヤ人』(1970年)が300万部のベストセラーとなり話題になりました。この方は評論家の小室直樹氏を見出した方とも言われます。
 そんな山本七平が文藝春秋社から1977年に出したのが『「空気」の研究』でした。


 今の世の中、空気を読むことは処世術として評価されますが、『「空気」の研究』では空気を読むことに対して批判的に書かれています。
当時の日本では、今もそうですが、多くの人は“空気”をとても気にかけます。そこに山本は注目し、空気が日本人の意思決定にどの様に働きかけるかを考察しました。

いわゆる「空気を読む」というときの「空気」。
日本人を呪縛する「その場の空気」という怪物!
「空気」とは何か?
この超論理的存在の発生から支配にいたるメカニズムを根底から解明した「山本日本学」の決定版。昭和期以前の人びとには「その場の空気に左右される」ことを「恥」と考える一面があった。しかし、現代の日本では〝空気〟はある種の〝絶対権威〟のように驚くべき力をふるっている。あらゆる論理や主張を超えて、人びとを拘束することの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想、心的秩序、体制を解き明かす。
 ところがこれははっきりと「これが空気です」と明示されるわけではありません。お互いに読みあって忖度し、自らその「空気」に合わせていかないといけない、なにやらあいまいでありつつ、各個人を呪縛するものです。

 日本人の言動を支配し、無責任体制を生み出す謎の「空気」について、「空気」ははっきりこれだと言うことができないものであり、自分で解釈するしかないものであり、多様性も異論も反論も認めない、誰でもないのに誰よりも強い「臨在感」だということが言われていました。「空気」には、反対している人の理由を聞いて説得するために合理的な根拠を示すということが絶対にないのだそうです。

「空気」はそれぞれの人が考えていることとは一致していない、にも関わらず「空気」は誰よりも強いのです。時には歴史を変えてしまうようなこともなしてしまいます。

例:「戦艦大和の出撃決定」「空気が動かす都庁」

 戦艦大和の出撃決定時『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う。』
との記述が小沢治三郎中将の証言にあるのです。
また当時の連合司令長官の豊田福武(1885~1957)は戦後、様々な日本軍の作戦の無謀を社会や評論家から非難されましたが、それに対して『当時、ああぜざるを得なかったとしか答えようがない。』と述べています。
 海軍のトップでも自分の意思決定というより、“ああせざるを得なかった”と言わせるものがあったのです。それが空気の支配でした。

 『「空気」の研究』の中で、日本には“抗空気罪”という罪があって、それに反すると、最も軽くて“村八分”に処せられ、その罪は軍人・非軍人、戦前・戦後に関係なく日本に存在する大きな絶対権を持った妖怪みたいなものであり、一種の超能力のようだ、と述べられています。

空気の超能力性は、一切の科学的手段も論理的論証をも受け付けないところにある、との事です。

 昨今、話題の忖度も空気を読む結果から起きます。忖度自体は悪くないのすが、空気が明示されていないから忖度という形をとらざるを得ません。
また、東芝の不正会計も経営トップの空気を部下が読んだ結果です。製造メーカのデータ改ざんも何かの空気を踏まえた上で実行されました。今も国会でやっている財務省の決裁文書の書き換えも同じでしょう。

空気とは絶対明示的に語られないのです。

それ故に、実は人それぞれに受け取り方が違うのです。空気を読め、とか言いますが、それはおおよその方向性は合っている(かもしれない)けれど、全く同じではないのです。
 従って、責任の所在が曖昧になります。東芝の不祥事や製造メーカのデータ改ざん等の件は、“トップだから責任を取った”であって、厳密な意味での責任は曖昧なままなのです。空気を感じさせるその環境が悪いのか、その空気を読み取った者が悪いのか、…。答えを出すのは至難な事です。

 その一方で、空気は“多様性”を認めません。空気は異論の存在を認めないのです。
皆の意見の総意としての空気と思われがちですが、民主主義の原則である、少数派の意見にも耳を貸す、とは真逆な事なのです。

 そんな空気がどうして日本で生まれやすいのか、なのですが山本はそこに“臨在感的把握”があるとしました。
臨在感的把握とは何かプラスアルファの力があって、それがモノや記号に宿っているという感じ方です。これが空気のスタートポイントと山本は考えました。

 日本の空気ですが儒教とも関係があって、上下関係の中にも組み込まれます。

※年寄りを敬いましょう、は誰でも納得しますが、その納得の仕方は人それぞれですし、また、納得しない方もそれに対して“敢えて“異を唱えません。しかし、冷静に考えると年寄りを敬う明確な理由はないのです。自分の親を敬うのとは実は別次元の事なのです。

 そしてマスメディアは空気発生の場を広げます。
今、NHKの大河ドラマで西郷隆盛さんのお話を扱っていますが、1877年(明治10年)の西南戦争にマスメディアが世間の空気の醸成に大きく働きました。

ちなみに西郷さんが率いる士族軍と官軍(明治政府)との戦いが西南戦争でした。
その戦争が起きるまで西郷隆盛は全国的に人々から支持されていました。明治政府はその事に危惧します。“西郷が危ない“となると全国が西郷を応援するのでは?という危惧です。つまり、政府は世論の動向を気にしたのです。西南戦争は世論の動向を気にした日本最初の戦争でした。その当時、日本にはマスコミが活発化する時代になっていました。明治政府はマスコミを利用することを考えたのです。

 そこでマスコミに露骨なレッテル貼りをさせました。それはまさしくステレオタイプ化です。具体的には、官軍“イコール”正義&仁愛の軍、という図式を人々に流しました。一方、西郷さんが率いる士族軍が賊軍&残虐人間集団という図式を流布したのです。そんな新聞は士族軍の悪逆非道を書き立て続けました。

※実際にはどっちもどっちでした。長州軍が行った会津への残虐非道ぶりは意外と知られていませんが、時代が時代だったとは言え酷いものです。南京大虐殺事件級の事が起きたそうです。
ちなみに、このレッテル貼りは後世の教科書にも“不平士族の反乱”という表現で残っています。明らかに曲解されています。

 そんな事があって、当時、西郷軍を応援していた人々も、『そんな事を言える空気ではない』といった状態になったそうです。こうなると人々の動きは止まります。
 物事を善悪という対立概念で把握しないで、一方を善、一方を悪と規定して、その規定が人々の思考を硬直させるのです。そして、その規定がマスコミによって広げていけるのです。

そうです。そこで行われるのは“支配”そのものです。

 ここでのポイントですがマスメディアが空気を作るのではありません。空気を拡大するのに利用される、という事です。

 大澤氏はそこに日本人の言葉の特徴を挙げます。
言葉には言葉の辞書的な意味より強い力を持ってしまう、という特徴があります。それが臨在感的把握を生み出し、そして空気を生み出すとの事です。そして面白い事に空気の寿命は儚いのです。臨在感的把握がなくなったらすぐに人は乗り換えます。空気を手放すのです。戦争中は“一億玉砕”とか言っていても、戦争が終わったら多くの人は直ぐに“アメリカ”とか“民主主義”を唱え始めるのです。

※大澤氏によると“アベノミクス”も臨在感だと言います。)皆(やマスコミ)が言うからそう思うだけ、との事です。

「臨在感的把握」とは「何かプラスフルファの力がモノや記号の背景に宿っているという感じ」だそうです。誰も望んでいない、そして実現するはずのない「一億玉砕」などもそうしたスローガンとして発せられました。その後の「一億総中流」とか「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などもそうしたものでしょう。そして最近の「一億総活躍社会」もそうかもしれません。
 政治家がスローガンを掲げた時は疑う事が重要だと思います(中島氏)。

 今の日本の政治は空気のつくり合い合戦みたいです。大きな空気を作った方が勝ち、となっています。
 マスメディアは空気を拡大していますが、そのマスメディアも空気を読んでいます。
 そして空気の変化も早くなっています。IT技術の進化というかSNSの進化がその背景にあります。情報の寿命が短くなり、情報は咀嚼というよりも感性にて処理されます。感性とは各自の持つステレオタイプです。各自の持つステレオタイプがSNSを通じて干渉し合う時、その干渉を安定させるのが空気です。

 空気とは人々が自分自身を安定・安心させる為の処世術で、科学技術がいくら進歩しても残るものです。

 山本は『「空気」の研究』の中で、空気に対抗するものとして“水”を挙げています。単なる比喩ではなく、水とは“話に水を差す”の水です。山本は“水とは通常性(常識)”と捉えています。
ただそうなのですが、水と空気とが一体化したのが日本人の意識構造です。水は空気を一瞬冷ますだけで、その水も次の空気を生みだします。

 「空気」の文化の他に、日本には「水」の文化もある。
「水をさす」ように働かず、「水に流す」法にばかり作用している。
これからも日本は、大気汚染されたこんな「空気」に支配され、もっともっと酷い国家になってゆくのでしょうか。

※本当はメディアは水でなければならない、というのがこの場の100分deメディア論の識者の方々の総論なのですが、皆さん、お忘れかもしれませんが、メディアは儲けなくてはならない、そこに大きなジレンマがあります。

 ただ民主主義とは多数者専制の代名詞ではない。

 政治の議会では多数決という数で牛耳られ、少数派との熟議によって、よりよい解決法を探るというの、本来の民主主義という姿は微塵もない。
安倍政治の暴挙はその点を忘れている、と思います。
 そしてもっと最悪なのは、モリカケ問題で、本来なら国会で「事実かどうか」を議論するまでもなく、安倍と言う強権手法が生み出した「忖度」によって行政が歪められているのにも関わらず、官僚たちは進んで「忖度」し、自民党の連中たちは、その安倍を諫めることなく、「空気」を読んで安倍を支え続けている。

 これからも日本は、大気汚染されたこんな「空気」に支配され、もっともっと酷い国家になってゆくのでしょうか。
  高橋さんは、権力に対抗する側もそうで、「空気」対「空気」になってしまうと何が議論されているのか分からなくなってしまうと話していました。
 謎の「空気」に対抗するには、通常性や常識という「水」が必要ということなのですが、その「水」も「空気」になり得るもので、そこに日本人の弱さがあるということでした。新しい「水」はまだ見つかっていないそうで、他にも様々な視点があるということを、メディアは提示し続けるしかないそうです。

4.メディアの未来
高橋源一郎(作家・明治学院大学教授)
ジョージ・オーエル著『1984』1.世論とメディア

 トランプ大統領が就任した直後、就任式に集まった人の数でホワイトハウスとメディアが揉めました。トランプ大統領はメディアの報道を『フェイクだっ!』と非難しました。明らかに人数は違っていると誰もが思ったのですが、政権側は『それは”オルタナティブ・ファクトだ(それにはもう一つの事実だ)』とか言って、多くの人がビックリというか笑ったものです。

そんな時にアメリカでベストセラーになったのが1949年に発表されたジョージ・オーウェル(George Orwell:1903~1950)著の『一九八四年』でした。

『一九八四年』が発表された当時、この本は近未来、しかも暗い未来社会、いわゆるディストピアを描いたものとして話題になりました。それが2016年にもアメリカで再度ベストセラーになりました。
 ジョージ・オーウェルはイギリス植民地時代のインド(ベンガル地方)に生まれました。ビルマ(現在のミャンマー)で警察官などをし、その後パリやロンドンを放浪し1933年に最初の著作、『パリ・ロンドン放浪記』を発表します。その後、ジャーナリストとしてスペイン内戦(1936~1939)に赴き、活動に感動して兵士にまでなるのですが、弾圧を受け、更に負傷してフランスに戻ります。一応、スペイン内戦体験を下に『カタロニア讃歌』を発表します。
その後、お父さんの故郷のスコットランドの孤島ジュラの農場に引きこもり、晩年に書き上げたのが『1984』でした。その翌年、1950年にロンドンで亡くなります。結核の悪化でした。

 スペイン内戦とはイタリアやナチスの支援を受けた軍部の反乱と社会主義を掲げる共和国軍側との紛争でした。
オーウェルは共和国軍に国際義勇軍として参加したのでした。
ただ、オーウェルはトロツキズムの流れを汲むマルクス主義統一労働者党(POUM)の活動に感銘するのですが、共産党軍にはソビエトからの援助を受けた共産党軍(スターリン主義)もいて、その内部抗争に矛盾を見出しました。そして共産主義に幻滅します。その幻滅が『1984』に強く反映されていると言われます。

『1984』は社会主義や共産主義を批判するものではありません。もっと大きな全体主義的な国家を批判した作品です。

 オーウェルが想像した未来の1984年は、

イギリス&南米&北米&アフリカ南部&オーストラリア :オセアニア
ヨーロッパ&ロシア :ユーラシア
日本&中国&中央アジア :イースタシア
という3つの国が世界を支配する状態でした。
世界は1950年の核戦争を経て3つの超大国に統合されたのでした。尚、アフリカ南部&東南アジア&中東&インドには国家はありません。

 物語の舞台はオセアニアです。この国は一党独裁国家です。最高指導者は“ビッグ・ブラザー”と呼ばれる人物です。但し、その人物の存在は確かではなく、その実態は国家権力は党のトップのごく小数のエリートが握っていました。
国民はその様な体制に監視・統制されていました。人々は、自宅に“テレスクリーン”という双方向テレビみたいなものを設置する義務があり、それによってほぼ全ての行動が当局によって監視されています。
双方向ですから、向こう側から指示が来る場合もあります。『健康体操をしなさいっ!』とか。

 人々は階層社会に位置づけされます。
国民の大半はプロールと呼ばれる労働者階級です。最下層です。
生活は貧しいままですが党は人々に扇情的なエンタメを供給(ポルノまでも供給)して不平・不満をコントロールします。

 階層の真ん中には党外郭という一般党員が属します。

 当局の権力は絶対で、過去すら党自らによって常に書き換えられます。森友学園の決裁文書みたいな、あんな可愛い削除なんてものではありません。

 そして上位層はエリート官僚です。

 主人公はウィンストン・スミスさんという人で一般党員です。仕事場はロンドンにある真理省です。ウィンストンさんの仕事は当局の命令に従い、党にとって都合の悪い過去の記事などを改ざん&捏造する事でした。過去に党が予言した事は今の時代に当たりました、とかです。
 党が人々に求めるのは二重思考です。打ち消しあう二つの事柄を併存させる事です。例えば、“戦争は平和”とか“自由は隷属なり”とか“無知は力なり”とかです。事情に応じて片方の事柄を思い出し、その都合が終わったらそれを忘れても片方を思い出すのです。
オセアニアが存続するには他の2国と戦い続けなくてはなりません。ですから“戦争は平和”です。政府機関には平和省があるのですが、そこは戦争をする省庁です。
また愛情省というのもありますが、そこは警察思想による逮捕や拷問を行うところです。
根本的に間違っているのですが、その間違いを間違いと認識する過去の事実はどんどん抹消されていくのです。

※ふるさとを想ったり寄付の気持ちが皆無で、単なる節税手段もしくはネットショッピングである“ふるさと納税“なんて可愛いものです。

つまり、人々からは思考が奪われていきます。疑問なんて持つ事は許されないのです。
 また、党は新しい言葉、ニュースピーク(Newspeak)という新しい言葉を作り、それを使う様に指示します。“bad:悪い”を使うな、“ungood:良くない”にしろ、です。
更に、言葉の削除も進めます。“free:自由”を削除しろ、とかです。
この意図は言葉を減らし、言葉の意味を減らすためです。“free”という言葉がないと、人々は自由になりたい、と思えないのです。

 前述したテレスクリーンに国威発揚メッセージが絶えず流れます。
また、テレスクリーンから“二分間憎悪映像”も出されます。
それは党に反発して行方をくらました反逆者、エマニュエル・ゴールドスタインの醜悪にデフォルメされた映像です。耳障りなBGMと共にそんな映像が2分間流されるのです。
 映像が流れると人々の心に憎悪が沸き起こります。皆が憎悪で一体感を得るのでした。その時の人々は憎悪に正気を失った狂人の様です。
 ウィンストンさんはそんな事をする社会に疑問を持ってしまいました。しかし、その時代はそんな違和感をもったことで“思考犯罪者”認定されます。
 ウィンストンさんは正気を保つため密かに手に入れた日記帳に自分の思考を書き残します。
 しかしウィンストンさんは結局、当局に行為を見つかり収監されます。
そして異端を“矯正”するという名目で拷問にかけられ洗脳されます。要は人の精神を破壊して、党への忠誠心を植え付けて社会復帰させるプログラムです。

 洗脳後、ウィンストンさんは党の象徴であるビッグ・ブラザーを敬愛するように作り替えられてしまいます。

そして作品は終わります。重苦しい読後感を感じます。

この二重思考が求められる社会で人々がしなくてはならない事

ステップ1 :新しい事実を嘘だと分かっていても認める
ステップ2 :嘘だったという事を忘れる
ステップ3 :正反対の事実を事実として受け入れる

この3つのステップを行うと二重思考社会に順応できるのです。こんな事おかしいと思うかもしれませんが、日本はこのような事を戦後に行っています。
 戦争で負けて、鬼畜米英と信じていた西洋社会を受け入れています。夏休み(?)が終わったら日本の子供達は180度転換した教育を受けました。同じ教科書を使った授業が再開されても、教科書の都合の悪いところは黒塗されて使われました。先生は同じ人です。ですから荒唐無稽とも言い切れないのです。

つい最近でも同じです。

 安倍首相が『エンゲル係数が上がっているのは社会が豊かになっている事』と国会答弁で言いました。

高橋さん:「安倍総理が国会で『エンゲル係数が上がっていることは豊かになっている』と、本来とは真逆の主張をしたんです」

大澤さん:「潤沢的主張ですね」

高橋さん:「そうしたら当日にWikipediaが書き換えられたんですよ。昔の話ではなくて」

全文表示 | 「エンゲル係数」ウィキペディア書き換え合戦 首相答弁直後に…官邸の陰謀説まで : J-CASTニュース
ウィキ:「エンゲル係数」ページ凍結で編集不能 その訳は – 毎日新聞

 それまで家計に占める食費の割合であるエンゲル係数は貧しい世帯ほど高いとされていたので皆がビックリしたのです。しかし、安倍首相は皆がイイものを食べられる様になったからエンゲル係数が上がった事が豊かさの表れと考えたみたいです。

 超ナンセンスな思考で総理大臣(の頭)は大丈夫か?と思ったのですが、ウィキペディアはその安倍首相の発言があった日に、エンゲル係数の記述を書き換えて、『エンゲル係数が高いのは単に貧しくなったとは言えない』を書き足しました。

 この様に本当に簡単に書き換えちゃうのです。
そもそも二重思考は人間にとって苦痛でもなんでもなくて普通にやっちゃうものです。そうすると筋が通る気がするからです。

メディアと言いますが人々が普通に使うインターネットも要はテレスクリーンと同じです。
インターネットの情報では人々が怒りや憎悪を感じるトピックスの方が盛り上がります。『1984』は監視社会を描いていますが、今は人々はネットを通じて繋がる事を求めます。“繋がる”という事は“監視”の形態の1つです。
更に、今やAIが自分の好みを踏まえて薦めてくれます。
 それでも人々はその様なネット環境に心地よさや自由を感じています。そうなると人は疑問を持たなくなります。

 もしかしたら今は『1984』よりも進んだ社会かもしれません。
ですから心地良さの合間にたまに“これで良いのか”と考えてみる方が良いかもしれません。不自由や不便をたまに感じる環境に身を置いてみるという事です。でもそれは難しそうです。

「二重思考」は「入念に組み立てられた嘘を告げながら、どこまでも真実であると認めること」です。「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」など、打ち消しあう二つの意見を同時に報じ、その二つが矛盾であると知りながら、両方正しいと信じることです。

 さらに、現在の状況に応じて過去が書き換えられるということも起こります。過去に発言されたことや、歴史の記録などが現在の権力がやっていることに合致しなければ、変更されるのは過去の発言であり、過去の歴史の方です。「日ごとに過去は現在の情況に合致するように変えられる」

 「党の発表した予言は間違いなく文書記録によって正しかったことが示される場であり、また、どんな報道記事も論説も現下の必要と矛盾する場合には記録されることは決して許されない」

 この言葉はあまりにも、現在の日本の政治状況そのものではないでしょうか?
公文書の改竄の話や、政治指導者が国民に求める「二重思考」という特殊な思考法の話を聞いていて、現代日本の安倍自民党政権にもよく似ているように思えました。
まるで、今は財務省の森友学園文書改竄事件について国会の集中審議で疑惑が追求されてもいる安倍政権の手法のそのも人間は言葉=概念で思考するのですから、言葉を少なくするということは自分で考えること、批判的な考えをもつことを抑圧することになります。
 「忘れなければいけないことは忘れ、必要があれば記憶に引き戻し、そしてまた直ちに忘れること」を繰り返す中、主人公のスミスは理性を保とうと努力していました。「昔は地球が太陽の周りを回っていると信じることは狂人のしるしだったが、今は過去を変更不可能だと信じることがそのしるし」、「党は二足す二は五だと発表し、それを信じるしかなくなるが、自由とは二足す二は四だと言える自由である。その自由が認められるならば他の自由は後から付いてくる」という言葉を聞いて、今の日本の中央省庁、例えば森友学園問題や加計学園問題に関わる財務省や国土交通省や文部科学省、裁量労働性のための変なデータを出したり年金の記録を無くしたり民間の企業に委託して(昨夜の報道によると、中国の会社に再委託するということもしていたそうです)個人情報を流したりしている厚生労働省、市民の人権が侵害される恐れのある共謀罪の創設を国際条約のために必要だとした法務省、南スーダンでの戦闘を記述したPKOの日報を隠蔽した疑惑のある防衛省などの役人の方たちにも、本の中の国家に監視されているスミスさんのように、その自由がないのかもしれないと思いました。

 党の国民支配法は、「二重思考」で個人の思考の自由を奪い、疑問を持ったり複雑なことを考えたりしないようにすることでした。戦争関連全般を扱う省は「平和省」、思想警察による逮捕・拷問が行われる省は「愛情省」、文化芸術の検閲・統制、過去の記録の改竄・破棄を行う省は「真理省」、慢性的な経済問題を扱う省は「潤沢省」と名付けられていました。高橋さんは、安倍首相が国会で、エンゲル係数が上がっているということは豊かになっているということだという謎の趣旨の答弁をしたその日の内に、安倍首相の答弁内容に合わせるために「ウィキペディア」の「エンゲル係数」の解説が書き換えられていたと話していました。高橋さんは、本当に驚いたと話していたのですが、実際に、そのようなことがあったそうです。安倍首相を支援する「党員」の誰かが書き換えたということでしょうか。怖いことです。
 ビッグブラザーの党は、「ニュースピーク」という簡略化した言葉を作り、それまであった言葉の数を減らし、言葉の意味も減らしていきました。人間は言葉=概念で思考するのですから、言葉を少なくするということは自分で考えること、批判的な考えをもつことを抑圧することになります。言葉を減らす=概念を減らすということで、そうして、人は考えることができなくなっていくのでした。言葉をなくし、あったことをなかったことにしていく政策です。考えない人々、何も感じない人々を作ることがその党の目的だということで、その本の中の世界は、現実の今の日本社会にも実現しつつあるようでした。

 四つの名著を踏まえて展開されたのは、あたかも国会の予算委員会で安倍にまつわる官僚たちの公文書改竄問題と、自己保身的忖度の為体も含めて、民主主義政治の危機が白日のもとにさらされている最中であるだけに、まるでそのことを分析して批判しているような印象を受けたが、この番組は収録されたのは、それ以前のことだったようだ。

 物語に登場する、街中や党員の家に設置されている「テレスクリーン」は、国威発揚や党のニュースを伝える装置で、受信と発信を同時に行う機械でした。テレビよりも、インターネットに近い双方向性のネットワークのようなものであり、プロパガンダを報道するとともに、各自の行動の監視も行っています。これは現在のSNSに近いもののように思います。SNSは現在監視にも使われていることは、スノーデンなどが指摘していることです。
  身の毛のよだつような音楽と共に「人民の敵」と呼ばれている党への反逆者を糾弾する映像が流され、「党の敵」への人々の憎悪を煽るという「二分間憎悪」の時間は、憎悪増幅装置、憎悪や嫌悪や恐怖の連鎖を生み出す装置としてのマスメディアをよく表しているそうです。メディアは、誉めることよりも攻撃することに向いているそうです。例えば、日本の報道番組や情報番組などで流れている北朝鮮の映像も、同じようなものであることが多いですし、単純に映像資料がないという可能性もありますが、視聴者に「憎悪」することを促すための映像なのかもしれません。

 

最終章「マスメディアはどうあるべきか」

 中島さんは、メディアには、アンデルセン童話の『はだかの王様』の子供のように「王様は裸だ」と言う役割がある、NHKの前会長は政府が右だと言ったものを左だと言うわけにはいかないとNHKを政府の広報と宣言していたが、メディアは逆であるべきで、政府が右だと言ったことを疑う姿勢であることが健全だと話していました。大澤さんは、政府が右と言ったら左の可能性があると疑うことがメディアの役割だと補足していました。

 高橋さんは、イギリスのBBCが、放送の最後にどうして国歌の「God Save the Queen」を流さないのかという保守党の政治家からの問い合わせに屈することなく、セックス・ピストルズの同名曲のライブ映像(歌は、エリザベス女王を非難するような内容だそうです)を流してユーモラスに対抗したという例を挙げていました。BBCには、自分たちのテレビ局は政府から独立しているという自負心があるのだそうです。強いです。

「未来へ、あるいは過去へ。思考が自由な時代、人が個人個人異なりながら孤独ではない時代へ。真実が存在し、なされたことがなされなかったことに改変できない時代へ向けて。画一の時代から、孤独の時代から、ビッグブラザーの時代から、二重思考の時代から、ごきげんよう」という『一九八四』の朗読の言葉で終わりました。

 「二重思考」は、例えば、自衛隊を海外派兵して他国の軍と戦わせることを可能にした集団的自衛権を合憲だと言い張った安倍首相あるいは与党自民党が、戦争法との批判を恐れて安全保障関連法を「平和安全法制」と呼んだり、軍需産業や軍備拡張を「積極的平和主義」と名付けていたことにも、当てはまるように思いました。完

引用:
http://aoiyugure.blog62.fc2.com/blog-entry-3904.html
https://ameblo.jp/otamajax007/entry-12370791773.html
https://blog.goo.ne.jp/mura-tatuhiko/e/a3a1f0faa112c67501fc4da9c770feea
https://twitter.com/nakajima1975/status/975040238639726593 …
【NHKオンデマンド】『100分 de メディア論』備忘録 作成者: sakakurahisashi
http://yuyukyukyuhibi.seesaa.net/article/458058598.html 

 

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