「日々工夫」で脳活性Ⅲ

 さて「日々工夫」についての多様な利点をお話してきました。世の中にはそのことに気づくことなく自分の生活環境を悪化させたまま何ら解決する姿勢なく生活を続けている人がいますが、「自分で考える」という習慣がついていないため、改善しようとする意識が起きない、または「仕方ない」と早々に諦めてしまう、どうしてよいかわからなくなってしまい手を出せない、といろいろなりゆうがあるようです。その結果ゴミ屋敷になってしまったという人たちも最近は多発しています。お気の毒です。
 日々「脳」を使っているか、逆に使わないようにしているかは、一見して見分けられます。先ず、モノをすぐに壊す、失くす、などが多い人は危険です。道具を使う際も、丁寧に扱い、使った後のことも考えながら使うことが「日々工夫」で、脳をしっかりつかい、考えながら行動している、ということです。
 
 仏教の用語に「三昧」(ざんまい)という言葉があります。「読書三昧」など肯定的な言葉なのですが、最近は「浮気三昧「贅沢三昧」など否定的につかわれることもあります。

『「三昧」は心を一つのものに集中させて安定した精神状態に入る宗教的な瞑想』と大辞林は説明しています。こころが散漫になったままの状態で行動すると、モノにこころが入らないためモノは壊れやすい状況下に置かれ、どこかへ紛失しやすい状況下に置かれるのです。モノではなく自分の子供なら丁寧に扱い、置き忘れることもないでしょう。
 児童虐待などは、子供にこころが向いていない所以からの行動なのでしょう。残念な行動です。そういう意味からも工夫とはココロを対象に向けるための最短な方法と言えます。臨済宗や曹洞宗では「座禅」という瞑想法をしますが、座る善だけではなく、日常のすべての行動が「善」の修行であるといいます。料理や掃除、勤行のすべての行いに「三昧」という意識集中をすることです。集中することで、それまで見えなかったものが見えるという新しい発見があります。そうして次第に俯瞰性も高まり、抽象思考が可能になります。抽象思考は脳の若さのバロメーターです。クリエイティブな能力もこのような脳の活性化によっておこるということなのでしょう。「日々工夫」の習慣はやがて「創意工夫」(それまでにない新しいアイデアによる創造)も可能となるのです。このような生活が退屈なわけないし、苦しいわけがありません。最近では健康においてもストレスの作用はおおきな要因になることが解ってきました。明日の自分を創るのは、今日の自分なのですから、今日を充実して、はじめて明日の充実が可能であることを考えると、今のひとときをただ何となく費やしてしまっているなら、「日々工夫」を思い出してみるのも決して悪くないことではないでしょう。実践してみてはいかがでしょうか。

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