「我慢大敵」
 
常識的に「仕事というものは、楽じゃない」と考えられているようなのですがその常識を「そうだ!」と賛成できない声が内側からこみあがって、本当にそうなの?と言いたくなってしまうのですが・・・・・?
というのは、私自身は「仕事は楽じゃない」という想いで仕事をしていないような気がするのです。“仕事を楽に仕上げる”ことへのプロセスは面白く、それなりに仕上がると痛快極まりない感覚に浸ることができます。それはゲームと同じような感覚です。
そうやって仕事をしていると「楽じゃない」と思う人も、挑戦する醍醐味や成就したときの達成感はきっと味わっているはずだろうと思うのです。

 私は親や周囲の大人たちから「苦」を美化し、「楽」を罪悪に貶める言葉を山ほど浴びせられ(そう感じただけかもしれませんが)「苦」という言葉がいつしか大嫌いになってしまいました。それなのに私は僧門に入りストイックを体験しました。結果はやはりその中でもアウトサイダーな存在で、還俗へと向かうことになりました。

 そうしたことが原因なのか、私の人生を振り返ってみると、決して「苦」を受け入れることなく、「楽」へ「楽」へと方向転換しながら生きてきたように思います。
「苦あれば楽あり」とか「苦労は買ってでもせよ」という格言を聞くと、「そうとは限らない」と心の中で叫んでしまいます。ですからそれに関わる言葉「頑張る」「努力」「我慢」「忍耐」「ガッツ」「拳を握る」といった言葉は私の辞書には存在しないくらい使わない言葉になっています。

  以前私の庵の柱に「我慢大敵」という字を板に書いて貼ってあったことがあります。来客が来るたびに「油断大敵ではないんですか?」と聞かれ、「私の造語です」と以下のような説明を付け加えたものです。例えば、「努力は積み重ねても崩れることもある」とか、「我慢をし続けると、痛み(こころやからだの)に鈍感になると同時に、壊れる手前を気づけないまま、壊れてしまう危険がある」といった説明です。大変独断と偏見に満ちた解釈と言えるかもしれません。
 しかしながら以後これまで、私はお蔭様で大変面白く、楽しい、楽な日々を重ね、すっかり「我慢大敵」は、取り立てて考えるほどのこともないほど些細な常識となって私の世界のしっかりした基礎を構築しています。

実は先日「仕事は楽じゃない」という言葉を知人から聞く機会を得、なんだか古めかしい化石に出会ったような感覚と同時に、私が如何に巷の常識とははずれた生活を続けているかを気づかされました。
ところで「仕事が楽じゃない」という人にとっては、頑張り、努力、我慢、忍耐、ガッツ、バイタリティーが必要となります。そんなことを毎日毎日続けていては、いつか切れるのは目に見えているとは思いませんか?

 『老後のためにと鞭打って 頑張り続けたその挙句 やっとリタイアした頃は 弱った体が荷となって 楽しむゆとりも消え失せり』

団塊世代にとっての常識ではこんな人生が当たり前。これではあまりにも可哀相すぎはしないでしょうか?先日亡くなりました我が夫もこのような常識の持ち主でした。一度しかない人生、これを教訓にして「生きてて良かった」と言える人生を歩みたいとつくづく思うばかりです。
 人間が他の動物と違って「苦労」を背負い、それを克服すという過酷な人生を与えられているとすれば、鳥や花などに生まれてきたほうが良かったということになります。
鳥だって花だってそれなりの仕事をしていますが、鳥が実を捜し、蜜を探し飛ぶこと、それ自体苦労でしょうか。花が根を張り、芽を伸ばし、葉を広げて陽光を浴びることそれ自体過酷な苦労でしょうか。

 もし、仕事を楽しめたとしたら・・・・きっと、時を忘れ、食事すら忘れるほど、のめりこんで没頭できるものになるのでは・・・?そうなればどんどん閃きも湧きあがり、益々楽しくなり・・・と、それは極上の幸せなのでは・・・・ということを言いたかったのです。

 「人生はそんなに甘いもんじゃない」と反論されそうですね。
これにはまだ続きがあります。私のブログを続けて読んでいただいている方は、いつかこのことを「あ!そうなのか」と納得いただける日が来るかもしれません。

 

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